老いて尚食う飯

加齢に伴い手の筋肉や顎や舌のコントロールミスによる粗相を避けるには殊更丁寧に食べることを心掛けるようにしているせいもあるが、最近如実に思い知らされ、小さな衝撃と共に感慨を新たにするのは飯を食うスピードの遅さ。元々(給食や学生の頃)は他人と遜色なく、むしろ周囲よりは早く食べ終わっていたはずだが、ここ10年ほど、仕事や業界関係者とランチを食うと呆気にとられる。同時に配膳されて食べ始めても、オレがホーホーとかウムウムとか見てくれを眺め、食材やら調理の仕方や料理人の工夫を味わいつつ、ウームとか思いながら一通りオカズに手を付けたぐらいで、エ? 唖然呆然。大半の人は食い終わってるのね。10分も掛かってないぞ。オレがとんかつ3切れ目をさて、塩にするかソースにするか悩んだ時点で椀を置いてゴチソウサマされたときには正直困った。半ば呆れられながら、ひたすらモグモグ食うのは結構辛い。戦乱に明け暮れ最速調理でないと飯を食いっぱぐれた中国料理じゃないんだからゆっくり食えばいいのに。

血圧はこんなもんが平常値。体動かしたり汗かくと上は130越えるな。塩分控えめなど一切してないが、代わりに濃い味の加工食品をほとんど食わんから血管の健全性はまだ保たれている模様。脈が速いのは昔から。心臓か循環器系に何らかの欠陥があるのだろう。母系はみんな心臓疾患、父系は完璧な癌家系。死に至る病は一旦リセット。よくやったオレの免疫、褒めて遣わす。引き続き脂肪肝は進行中、結石は一度もないが通風はここ数年最大の脅威、尿酸値下げる薬は飲んでいないが挫けそうになる。喪う時間を考えるならばもう薬で対症療法に走っても良いのではないか? とも考えている。

気休め

初夏に昼間6000歩歩いて、深夜脱水して、声も出ない冷や汗たらたらのこむら返りでフクラハギの筋肉がメリッと音を立ててあらぬ方向に動いた。完全に肉離れで全治1ヶ月。とにかく治りが遅くて、いつかは元通りに治らなくなる時が来るというのが老いというものなのだろう。仕事でも高いところには登らない、低いところにも降りない、動くものには近寄らないを心掛けているが、危ういよな。

黄昏

シャッター通りの今にも崩れ落ちそうなアーケード屋根が尽きる駅から最も遠い南端に何を血迷ったのか騙されたのか、よくある偽インド料理店が開業していて、予想通り流行っているようには見えないのだが……。異様に黒っぽい服に身を包み談笑している学生風から中高年のオヤジまで、ほぼ全てが男かと思ったら女もけっこういるな。そんな特有のむさ苦しさとサブカル崩れ風の人が100人ほど、人通りのない商店街の廃墟に一列に並んでおって驚いたわ。あの偽インネパ屋に並ぶわけないよな? とチラ見すると店の隣に新店が開業しており、その新しい今風のラーメン店に行列ができていたということらしい。世の中景気良いんだな。もうちょっと駅よりの立地にあったラーメン店は1年持たなかった気もするが、今度のラーメン店は時間帯を極端に絞った集中営業でコストダウンと時間単価を上げる密々戦略か。ガラス越しに見える店内は学校の教室のように厨房方向を向いたカウンターテーブルが複数あって、全員同じ向きで立ち食い(笑)。食い終わったらすぐ帰れていいよな。

ラーメン店の隣には雨後の筍状態であちこちに出現するインド・ネパール風料理店。それも判を押したようにワラワラと湧いてくるほどやたら店員が多く、メニューもそっくり。小さなステンレス器にギーはもちろん、ほとんどスパイスもバターも使っていない(使ったら日本人は誰も食べない)旨味増強インチキ・マサラ2種、ドラムじゃなくて手羽元の蒸し焼き一本に何の工夫もない千切りキャベツと胡瓜、ペラペラの櫛切りトマト一枚のインドじゃ絶対食わない生野菜の極小サラダに何故か市販のオレンジ色の業務用ドレシングか胡麻ドレがダバダバ(笑)、そしてもちろん、他を圧する白い精製小麦粉で作るお代わり無料巨大▽ナ~ンにうるち米の白飯椀盛りまでついて1000円前後のランチ・セット。材料原価率は10%切るんじゃないか?(笑) 日本人の7割を占めるB層の異様なまでのお代わり無料+甘くてフニャフニャした炭水化物信仰と糖尿病まっしぐらの絶対的糖類嗜好を見切って市民権を得た完璧なメニュー構成には只々頷くしかない! 完璧。婦人セットには甘いデザートも洩れなく付いてるよ。一応組織的な粉飾ができないと云われているGoogleマップでの口コミ評価も上々で、電気タンドール屋さん大勝利。タンドール窯を1基入れると法務省からネパ人4人の就労ビザが出るんだわ。ホント、ちょろいもんだわ。

飲食ビジネスもすっかり様変わりして、暖簾代はもちろん、開業資金の融資斡旋、経営指南から宣伝広告、人材配置、仕入れ、外注サービス、労務管理というか極論すれば就労ビザ取得のための無料奉仕から逃亡研修生の不法就労斡旋に至るまで、バックで仕切ってる飲食コンサル産業と奴隷商人+紐付きの金融機関+不動産屋+内装屋+厨房設備屋においしいところを全部引っこ抜かれるから、フランチャイズのチェーン飲食やコンビニの名ばかり店長と変わらんよね(笑)。更に啓発セミナー紛いの尊師様に洗脳されちゃって、ろくに人通すらない見知らぬ老人の街で、金借りて店借りてってまるで自分がすべてを決めているように思わせて、実は演出者の手の平で踊らされ、周囲に散々迷惑を掛けて、総身に知恵が回らないおだてられたカモだったことに気づくこともなく消えていくのか。残るのは借金だけ。合掌。

最初からブームに陰りが見える前に売り切って撤退して、次に投資をしていく焼き畑農法してるのもあるだろうが、そういうのは極少数で、最初から生かさず殺さず、売上が誤魔化しきれなくなったら消費税の納税前に廃業狙いかな。過疎田舎の街道沿いに何故かポコポコ乱立する中国人ですら得体の知れない連中と訝しる異様に従業員が多くて安い大陸系の中華料理店なども同じらしいな。

黄昏れた老境に相応しい茸only lonely pasta into twillight

西洋松露は薄くスライス、乾燥ヤマドリタケは適量を水で戻す。買い集めた見切り品の生クリーム紙パック200mlは42%でも35%でもどっちでも良いわ。味の差は、まぁ、わからん。チーズはグラナ・パダーノかペコリーノ・ロマノなど適当に。バジルはプランターから摘んでくる。パスタはアニェージのリングイネ。白葡萄酒か発泡葡萄酒適量。

茸クリームパスタ

リングイネを沸騰した湯と塩で茹で始め、ミジン切りした大蒜をとろ火のオリーブ油で炒め、西洋松露、水を切ったヤマドリタケを加え弱火にしてじっくり炒め、白葡萄酒。岩塩、緑胡椒などで調味し、生クリームをドバドバ。固まってるのはナイフで削ぐ。沸騰させないよう白葡萄酒で伸ばしながら弱火で加熱。パスタが茹だったらソースに加えて軽く和えて火を止める。バジル、下ろしたチーズを振って、ありきたりな西洋松露とヤマドリタケのクリームパスタの不可逆的な衰退をひっそりと味わう。

結局、アマプラの『孤独のグルメ』を最後まで見れないのは、いくら対象視聴者層の知的レベルに寄り添う偽悪趣味的演出とはいえ、店に入ってオーダーする→料理が出てくる→食べ始める→白いご飯が欲しくなってまだ料理も揃わないのに先に飯を追加→出てきた白飯にわざわざオカズを載せたりブッ掛けたりして器に口を付けて掻き込む→やっぱりオレは日本人! 満足~といった光景が繰り返されていて、あーあと停止ボタンをクリックしてしまう。

そういう行為は料理を作って提供する側から見れば、最適の条件をセットして提供しているものを勝手にリ・アレンジしてるわけで「何だ? こいつ?」と、侮辱とまでは言わないがかなり不快、100歩譲って幼稚な振る舞いだなと呆気にとられ、クワバラ/クワバラと記憶ごと抹消するタイプのインシデントであろう。個人としてはもちろんそういう人とは二度と食事を共にすることはないわけだが、一人飯だから、金払っているんだから、どう食おうとオレの勝手だろと宣う個性溢れる方々が急速に増えているのはなかなか興味深く退屈しない。時代遅れな老害爺の妄言だが、白い飯にだって際立つ味わいはあるだろうに。その味がわからないとしたら、それこそ日本人なの? 普段どういう米食ってんだ?

もちろん提供する側としては、そのあたりを逆手に取って洗い物+カトラリィ・コスト削減+人件費削減という思惑と合致した結果が、何でもかんでも丼/ワンプレート化して、飯とオカズとサラダも漬物も徹底的に合盛りする大人のお子様ランチ化の趨勢に繋がっているのだろう。子供の頃からそういう食い方をして来た親に育てられれば、子供は疑問に思うことすらなくなるのは当たり前。でも、丼ってのは遡ったって江戸末期のただの賄いだから。客に出すものじゃないというのが本来の位置付け。まぁ、グルメ記事を数ページ眺めただけで「白飯に載ったオカズ」を散々見せ付けられるわけで、たまたま親子丼を作ろうと眺めていたら、今は丼飯をスプーンで食うのね。白飯は味がなくてマズいから、オカズとつゆでベチャベチャにするわけで、もはや箸では食い難いということなのだろう。すき家などでは一家揃ってスプーン食いはよく見る光景だが、公に配信される画像でそれが当たり前になりつつあるというのは、ちょっと衝撃的で隔世の感があるというか、世間から脱落した自らの老いをヒシヒシと感じるものだ。

■弁当や作り置きがなぜそこまで礼賛されるのか?

弁当について語られた文章を読むと必ずといっていいほど「冷めてもおいしい」という言葉に遭遇する。その言葉には言外に「冷めたらマズイ」という認識に普遍性があることを容認しているわけではないのか? なのになぜ、適温で出来たてのものを食う環境や状況を作る努力をせずに、冷めてもおいしい弁当を作ることに躍起になるのか?

元々、弁当というのは酒とともに花見や観劇をより楽しく豊かに過ごすためのハレの行事の補完アイテムだったわけだが、それらは昭和中期の運動会で母親が競って作った豪華弁当やおせち、祭事や法事の仕出しに継承されていなくもないが、自分で作れない、手間暇掛けたくない、行事そのものの簡略化によって極一部が細々と続くもほぼ風前の灯状態。弁松の折詰は今も健在だが、ほとんど老人のノスタルジィで若い人に受けるような内容ではないよな。

一方で、農家が農作業の合間に家に戻らずに済む手弁当としての塩オニギリに漬物、旅人が宿の朝飯と夕飯の間の腹ごなしとしての握り飯や蕎麦、峠の茶屋が現代の弁当に嫡々と継承された系譜なのだろう。前者は仕事や作業の合間に食う愛妻弁当だったり親が作ってくれた、自分で作った自炊弁当になり、後者は駅弁や調達した中食や惣菜、ファスト・フードと名前を変えて隆盛を極めている。電子レンジで温めたりカップラーメンのように熱い湯で戻したりする例はあるものの、保存性を兼ねて基本は冷めても食える濃い味付けが施され、目先を変える冷凍食品や業務用惣菜が多用され、貧相な素材を濃厚な味付けで蘇らせる様々な工夫が施されている。タダでさえ味が落ちる作り置きに、外気温の影響による食材の劣化、携帯性や振動や横Gによる変位によって見映だけじゃなく匂いが混じり合い余計な味が染みたりというデメリット・三重苦の上に、食べる人間にとっては食べなきゃいけないものを消化するという義務感までが加重されてしまうわけで、昔から弁当と聞いただけでげんなりする。しかも現代の中食や弁当には前述の豪華絢爛娯楽饗宴酒池肉林要素は殆どないわけで、家で飯が食えない、外食もできないという状況での代替食でしかないと思うのだが、世間はそうじゃないようだ(笑)。

プロの料理人が作る本来の外食ではなかなか味わえない、有り得ない組み合わせ(冷たい牛乳+ご飯や焼かない食パンにマーガリン等々)と冷めたしょぼいオカズを子供のうちから受容させる耐性訓練が給食であり、伸びた麺、冷たい汁や飯、油が回った揚げ物、冷めた焼き魚、チルドされてた冷たい寿司、鮮やかな色だけが取り柄の冷食を自ら進んで摂取し、適温を外した作り置きでも味が濃けりゃ食えるという実践が中食や弁当であり、それらをあまねく敷衍することが社会の安定に繋がるんだなとつくづく感じるところであります(笑)。外食もラーメン、カレー、ハンバーグ、牛丼にMACなら1000円以下で納まるけれど、それ以下でも生きていける方策を用意して、なおかつ家族愛とコスパや節約上手を美徳として崇め奉り、肯定的な価値作り+ガス抜きが図られる。毎日弁当を作ってくれるヨメと、外で食べれば? と金をくれる妻だったら、多くは前者を評価し礼賛するのが現実でしょ? そこには食事という行為をおいしさという本質とは本来関わりのない情の有無で差別化しようという得体の知れないキモさが包含されていないか?

スーパーやコンビニ弁当は原則透明な蓋から中が見える。底側の容器は上げ底だったり二重だったり酷いものだが、予期しないシェイクがなければ食べる直前まで概ね最初の見た目は保証されている。でも、お弁当自慢の方たちが作るお弁当って、容器に詰め終わって出来た時の写真(それじゃ隙間だらけで寄ってメチャクチャにならんか?)ならまだしも、要するにSNSやブログ、或いはWebのゴミ記事に載せるための撮影用弁当で、そのまま蓋して満員電車で揉まれ圧迫され、天地逆さま、横倒しローリングの刑に処され、冬の極寒で氷付き、真夏の40度で腐敗寸前まで蒸され変色し、オカズが散乱し、汁が飯に染み渡った弁当の蓋を開けたときの写真は何故か1枚も無い(笑)、と思うのだがオレが間違っているのだろうか? 容器やパッキングの技術的進歩によって保温性や変形変質しにくさは大きく改善されているのかもしれないが、使える食器やカトラリィを含めて所詮は簡易簡便食であることには変わりない。おいしさという食の本質を蔑ろにすることで経済性や健康かもしれないという希望的観測を希求し、社会通念上の良識や美徳を装いつつ、弁当自慢といった自己評価欲まで満足できるアイテムとしてはお手軽なのだろうが、それは作る人の論理であって食べる人の論理ではない。

■から揚げの天才!のお弁当の天才!!

弁天

貰い物。くれるモノは喜んで貰う。「から揚げの天才」が始めた「お弁当の天才」という名の海苔弁である。から揚げ1個付きのタルタル天才海苔弁に黒からと赤からを増量した。弁当箱に当たる外皮は蓋 が一体化された白いウレタン製で嵩がかなりある。中身はぎっしりというわけではないが、表面積最優先のスカスカペラペラ弁当が隆盛を極める今風の弁当としてはかなり重量感がある。ウホ。ホモ弁よりは確実に重い。重さは正義。パッケージが不透明で中が見えないので期待感がくすぐられる。まぁ、ココも低単価のからあげ屋が本業というよりも、ど素人を釣り上げて開業支援コンサルで稼ぐビジネス・モデルなのだろう。議員なんかツマラン時間のムダと一期で放り出せるほど賢い人だ(笑)。ブームが終われば生き残れる店と先がない店に明闇くっきり。寄ってくる客のレベルも最底辺だから可哀想に待たされたの、どこが天才だ?の、隠れワタミだのってこき下ろされてGoogleの評価も地を這ってるな(笑)。おかげで閑古鳥が鳴いているようだが、自分でからあげを揚げない者としては重宝しているわ。せいぜい数ヶ月に一度だが。

海苔弁+2

久々にホモ食ったんだが、飯の量ずいぶん減ったな。重量で20%cutくらい。ここも屁理屈並べ立てて容器をコソコソ換えて目眩ましを図っているのか、ご飯の厚さがどんどん薄くなる(笑)。カロリーが減ると露見するから油をチョイと足せばOK。スーパーの弁当の米厚5mmの感嘆するレベルの上げ底には敵わないけどな。と思っていたら、他所が騒がしいときを見計らって海苔弁値上げ、来たな。ちくわ天が1.5倍? 新製品と従来品の写真のスケールが微妙に違うあたり、一斉に援護の提灯記事を垂れ流し始めたマスコミともタイアップ済みだな。容器も微妙に変えてくるかもな。正直に値上げするとコスパ命の顧客層の離反を招いて痛い目に遭ったから仕方がないことは理解する。

まず弁当箱という外枠がありき、そこに中身をみっしりと詰め込んでいくという作業が民族的な匣の内・村の秩序的快感に繋がっていることは間違いない。だから「弁当だから仕方がない」はいとも容易く本末転倒し「弁当こそが至高」という美徳と情動の極みに達するわけだ。外食の旨いマズイは食べる人の評価だが、弁当は実際に食べる人の評価はほとんどなくて作る人の評価なんだなと改めて思う。

「素人手作り作り置き+母性愛」>「研ぎ澄まされた感性とテクニックでプロが作った最適化された料理」

結局、弁当信仰の根底にあるのは連綿と続く歴史的母性主義に立脚する「料理は愛情」という「家族の作る手料理」信仰なんだろうな。有能なプロよりも親しみやすい無能を好む社会性というか、同一同調への共感こそが至高の価値になるわけだ。そこにあるのは「給料が上がらないからコ・ス・パを追求し節約に励む」という志向と同じ。決して「コストが上がるなら上がった分以上に稼げばいい」という最も自然で順当な方向には流れないんだな(笑)。資産がなくて給与収入に頼らざるを得ないなら、給料を上げてもらうとか転職するとか副業するとかいっそのこと事業を起こすとか、合法の範囲内でも遣りようはいくらでもある。与えられた外枠から抜け出すにはそれなりの才覚と努力が必須だが、その努力すら徹底して厭い、身近に得するヤツがいれば、たとえ自分に多少のデメリットが生じても、隙きあらばその足を引っ張り、引き摺り降ろそうという底無しの妬みと嫉みは最早民族としての習性なのだろう。いやはや、ご立派。

楽天から落胆へ

max1GBのデータ通信帯域をほぼ使わない、音声しか使わないユーザを0円乞食として切り捨て、自称情強(笑)3278円で使い放題のデータ通信に群がる、家に光も引けずWi-fiもない筋金入りの乞食を温存って、さすがに拙速すぎないか(笑)。既得権益に切り込む姿勢や楽天市場で恒常的にポイントが増えるなら、タダだし入っとくか……な人は多かったと思うが、その信用を毀損してまで使い放題や食べ放題に群がるような客を優遇しちゃったな(笑)。ぽいんちょ改悪の連発に続き、当面プラチナバンドが貰えなかったのがわかった途端の掌返しとは、若さ故の筋の悪さと卓見の無さが露呈し始めたな。苦しくなると悪手を連発してしまうのは人の性だろうが、商売は貧乏人を相手にしてはいけないのと、電話屋やメディアなら、たとえ顧客がクズ以下の滓だろうが家畜だろうが、本音で語ってはいけない。彼等が望む餌で衆目を惹き、おだて褒め上げ薄く広く搾り取るもんだ。元々その典型である運動興行や芸能浮世稼業を抱えた企業には一定の距離感が必要と考えてきたが、そろそろ関わり合いを再考しないといけないか。当面、サブ電話の有料化に対してはMNP脱出を図るとするか。

移転先はいろいろ見るとやっぱりpovo2なのかね? ずっと0円というわけにはいかないようだが、ろくに使いもしないのに継続課金は辛いものな。もう遠い昔、今は亡きPHS後の最初の携帯電話はauだったが、docomoと同じく元はと言えば親方日の丸国策会社だから、愚かな大衆にどれだけ迎合する振りをしようともその背後に透けて見える既得権益の鎧を被った傲慢さに期待できないことは重々承知している。だからといってSBやRakutenの節操の無さ、最初は派手にぶち上げるが見る見るうちに尻窄みになる拙速さも子供じみていて滑稽でしかない。まぁ、冴えなかったau-Payにもこのところ少し力が入ってきたし、どこも囲い込みの改悪続きだし、au-Payカードとじぶん銀行に口座作って選択肢を増やしておくか。

6末/7頭のMNP移動に際して、まずは6中にau-PAYカードの申込み。リボ5万で設定(1ヶ月後に10万に変更)。カードが届くまで1週間ほど待って、auじぶん銀行に口座開設。自撮り動画をアップロードしてこちらも5日ほどでキャッシュカードが届いて開設完了。同封の様々なパンフを眺め、取り敢えずau-PAYにカードから月を跨いで5万+2万充填して、発行翌月までに7万カード決済、ETCカードを追加申込して、引き落とし口座をじぶん銀行に設定変更して口座から5万充填、まだあるかな? 後はじぶん銀行に外貨定期充填して、系列の証券に口座作って連携すれば役満ですか? ふむふむ、カードと銀行を連携して本人認証するとau-Payに充填した残高を銀行に戻せるのか。それは太っ腹な良い仕組みだね。

マイナ2は6/30にPCから申込み、還元先はau-PAYカードにしたんだが、7/1の朝には15000充填されてて驚いた。保険証は以前から登録していたが、今回も登録申込みすると特に何もせず7500円くれたワ。口座登録はpaypay銀行はやぶさ支店だぜ(笑)。不公平なバラマキするなら老人にも給付金ヨロピク。貧乏万歳。ポイン乞食万歳! と思ったらau障害発生。7/2昼にsimが届いたのにsetupができないじゃないか(笑)。しかし若者様や都会人様とはIoTの扱いにおいて雲泥の差+越えられない壁がある貧カッペ老にとっては昨今のディジタルな世の中は付いていくのも覚束ないどころか、ケツを捲って逃げ出したくなるな。ひーひー。

■バリバリえびのや顛末:変わり身は速し、あっぱれ電光石火・センスはかっぽれ・あーよいよい

ガリッと揚げたて、バリバリの天麩羅と砂糖醤油みたいな甘辛い濃厚コクタレと明太子食べ放題で鮮烈デビュー、世間の大絶賛を浴びた博多パクリの大阪天麩羅えびのや、あれから半年も経たぬのに、カッペ寒村近郊店舗はご臨終の御様子。カッペは相手にしないで天麩羅は大都会の一級市民が集う店舗に集約の模様。そこから目と鼻の先、メインストリートから外れたろくすっぽ駐車場すら無い個人経営の天麩羅屋は元気に営業中で、やっぱり洗煉されすぎた天麩羅は東夷土人の舌には合わなかったということか?(笑) 「てんや」や「やまみ」にも通づる(博多天ぷらというジャンルがあるらしい:現在絶賛進出中だわ)というか、如何にも西日本というか、大阪企業というか、いつの間にかこっそり『無添』の看板を外しているくら寿司や釣れてる魚に餌はやらない売り切れ御免商法のスシローと似た胡散臭さをヒシヒシと感ずるわ。

おまけに最初から冷え切った天つゆ? には大根下ろしが沈んでいるし、下ろし生姜は存在すらない。ヤマとかボウズとか富士オロシ(盛合せの手前に佇む、下ろしを円錐状に整形して下ろし生姜を冠に載せたアレ)といった薬味の概念があるのか? 薬味は好みで調整しながら食べる人間が選ぶものだろう? 特に大根おろしの切れ味の要である辛味はつゆに溶いたら持たないだろうに。辛味大根(など使ってるわけないが)がかわいそう。オレが時代遅れなのか? 蕎麦屋でモリ蕎麦頼んだら最初からヌルい蕎麦つゆに葱と天かすが浮いていて、山葵は? って訊いて「は?」と返されたら、己のカッペさ加減を恥じて二度と行けないだろ? デパ上の天麩羅屋ですら、急須で保温された天つゆ2種に数種の塩に、大根下ろしはもちろん、生姜、柚子、カボス、柑橘、山椒、紫蘇、分葱、蓼といった薬味を取り揃えているのに。まぁ、ファミリィや若い人向けの店だから今風なのだろうが、材料は生き物なんだからさ、雑に扱うのは可哀想だろ。

今は同系列の劣化コメダみたいな大阪風郊外型喫茶店に宗旨変えした模様。スイーツからオムライスにトンカツ、から揚げ、海老フライ、サンドウィッチ、ナポリタン・ミートソースまで、ちょっとレトロな昭和のB層好みの堂々たるオンパレイドなのだが、今度は天麩羅を絶賛してた頭悪そうなDQN客にまで酷評されれて可哀想(笑)。サクラを逐次投入して絶賛すればそのうち盛り返すさ。あ~よいよい。物は試しに前を通りかかったら入ってみよう。コメダより居心地良さそう。(後注:天麩羅盛合せを温かく湯気が立ちほんのりと出汁が香り、透明であっさりとした天つゆに端を浸して食い、坊主を添えたり、下ろした大根や生姜を薬味に使うのは東夷田舎蛮族の風習であって、あくまでも下層カッペ集落近在の田舎天麩羅特有の事例のようです。多くは濃甘天タレや甘口醤油、塩、抹茶塩、ソースで食べるのが正しい天麩羅の食べ方です。“つゆ”という言葉自体が“返し+出汁”を示す田舎土人言葉なのでしょう。カッペの本性、井の中の蛙大海を知らずというヤツですね。地上の楽園:博多てんぷら、洗練の食い倒れ:大阪てんぷら、そして全国のてんぷらさん、ごめんなさい。)

今回のGtE(2022春~初夏)は転売防止のためか販売期間が短いし、使用期限も短くて使い難い。おまけも20%とショボいからかなり売れ残った模様。初日にLineで電子クーポン2万分を購入し使い始めたがGWの最中に出掛ける趣向はないので販売期限には使い切れず、今回は2回目が買えなかった。仕方がないので紙チケットを追加で2万購入。これがまたアホな仕様でわざわざ7/11に出向き、多機能コピー機の発券機能でポチポチやって申込み、印刷された申込書を30分以内にレジに持ち込んで、レジで発券してもらうという時代遅れな人力システムで悶絶だわ。1回で1万分しか申し込めないから2回同じ作業を繰り返すのよ(笑)。一応名前とTEL番号記入が必要だが、本人認証するわけでも何でもないので全く意味無し。その気になればいくらでも買える。会計はカードが使えるからSMBCコンタクトレスなら5%還元で、計25%の割引きと。まぁ、そんなもんか。4万買って8千円+αのプレミアム。かっぺ鮨1回分だね。

ブダン・ノワール(Boudins Noirs)或いはブラック・プディング(Black Pudding)

豚血腸詰め

豚の血の腸詰めである。アイルランドやイングランドの田舎に行くと普通の宿の朝御飯に黒いライ麦パンと一緒によく出てくる。同種のものはフランスやドイツにもありますな。イングリッシュ・ブレックファストと同様に元来は田舎の農民食で、朝食うと夕方まで腹が減らないというテンコ盛りの朝食によく添えられている。内蔵肉や背脂を香味野菜、強めのスパイス、豚の血で練ったものが充填されており、レバーのように濃厚である。弱火でゆっくり茹でて熱を通し、フライパンで軽く焼き目をつけるくらい。味付けは塩胡椒で十分。

ブダン・ノワール

付け合せはパン・ペルデュ(Pain perdu)

読んで字の如く残飯。古くなったバゲットを卵・砂糖・牛乳の混合液に浸し、ヴァニラの欠片を散らし数日置いて、バターと粉砂糖をテンコ盛りにして焼き上げたもの。食パンを使うとフレンチ・トーストという。ヴァニラは香り飛んじゃうから焼く直前に追加したほうが良い。砂糖が溶けて外はカリカリ、中は吸い込んだ水分でヌチュヌチュで熱々、超こってり高カロリーの極み。

残パン

GotoEatが使えるうちに場末の鄙びたとんかつ屋

平日ランチ時間帯、GtEの利用率は5組中4組(オレ入れて)と盛況ですな。80過ぎの立ってるのがやっとな爺が(娘?の手解きを受けながら)電子クーポン使っていて微笑ましいじゃないか。オレだって老人なのに誰も老人扱いしてくれないのは何でだ? 車みたいに枯葉マーク付ければ良いのか? ジャンボ・ヒレに飯、赤出汁なめこ、お新香盛合せに瓶麦酒大。5種盛りの漬物をポリポリしながら気長に麦酒を嗜める。経験的に20分強は覚悟が必要。食い終わって、せっかくだから食器を下げに来た女将に色々訊いてみたところ、ジャンボ・ロース、ヒレ共に油で揚げてはいないそうだ。う~む、そうだったか。

とんQ

1年半ぶりくらい。茨城つくばが本店の郊外型とんかつ店で今見たら数えるほどしか店がない。前からそうなのかコロナで縮小したのかは知らない。通算5回目くらい。味は定評がある。肉はやまと豚と赤城豚、それぞれロース・ヒレ、大きさも選べる。厚切りの240gに目が眩むが、最近食が細くなっているからやまとロース200gで妥協する。ご飯は魚沼コシと炊き込みから選択で滅多に食わない魚沼コシを、汁は豚汁と赤出汁から豚汁を選択。

最初に胡麻摺り容器に煎り胡麻が提供され、摺った胡麻の容器に卓上のとんかつソースを入れるのが習わし。注文から20分ほどで膳に載ったメインが到着。どーんとカツが目を惹く。衣は粗すぎず細かすぎずの中庸。皿の上の網に載っている。山盛りの千切りキャベツ、瑞々しいレモンくし切り2個、飯と椀。キャベツと3種の凝ったお新香、飯はおかわり自由と説明される。飯は2種を食うこともできる。早速右端を箸に取り半分食い千切る。ステーキは左から、とんかつは真ん中より左寄りの縦長部分を最初に食うとされるが、脂っこい部分が最後に残るのは好きじゃない。そのまま何も付けずに右端を味わい、脂の味を堪能する。右2と右3は塩を振ってレモンを絞り、概ね中心から左はソースで食う。千切りキャベツ用ににんじんドレッシングと岩塩ドレッシングが提供される。どちらも加工食品臭くない味わいで、普通はお代わりしないキャベツをつい追加したくなる。辛子も辛いだけでなく刻んだ柚子の皮の香りと酸味が微かに匂うもので、なかなか手が込んでいる。

飯と椀、お新香は時期によって中身が変わるが、それなりに斬新で料理人のセンスは見習いたいレベル。毎回新たな発見があるのは嬉しい。

一月後。アジフライに心惹かれつつも念願のやまと豚ロース厚切り240gで。注文時に少々お時間かかりますが? と念押しされるが当然であろう。その10日後、鱧フライに激しく心惹かれながらも赤城豚ロース厚切り240gで。とても魅力的に映る海老フライやアジフライにはいつ辿り着けるのだろうか。

所詮は弱小郊外チェーン、都内の老舗には敵わないが、都内一等地に出店しているブランド豚を前面に出したプロデュース産業系行列店に比べれば半値以下だし、肉質も安定している。何よりも細かい部分に気が行き届いていて感心した。

とうとう国民食にしてソウルフーズになってしまったラーメンとカレー

過疎カッペ寒村には外食しようにもロクな店がなく、そろそろ仕事を片付けて移住を念頭に入れなきゃいけない状態に陥っているこの頃。タダでさえ数少ない外食店のなかでも、大部分を占めるラーメン(つけ麺)店、カレー屋、セルフのハンバーガー・チェーン、うどん・チェーン店には全く足が向かなくて、最初から飯食う店としての認識から外れている。別にどれもモノが嫌いというわけではないが、これらに共通する密度の高い忙しなさみたいなものが受け入れ難いのだと常々考えている。つまり、狭いカウンターで肩を寄せ合いラーメン、うどんをズズッと啜ってすぐ席を立つ、牛丼やカレーライスを掻き込む、歩き食い立ち食いでパクつけるハンバーガー……といったほぼ一品、簡便化されたメイン商品のみを家畜のように食うスタイルですな。雇われ人だった頃にそんな腹さえ満たせばいい的な給餌スタイルを強要されたことは多々あったものだが、そんな生き方を続けるのがつくづく嫌になって今がある。今のラーメンは昔と違って手間ひまかけて質が違う(価格も)別の食い物とよく言われるが、食い方はあまり変わってないよね? 麺が出てきたら10分ほどで食わないと伸びちゃうしな。普通に食前酒から初めて最後のお茶まで短くても1時間、旨くてつい酒が進むと2時間は必要だろう? 連れ合いがいれば会話の時間も加わるからもっと長くなる。飲んだ後の締めのラーメンというのも食べたいと思ったことはない(無理やり連れて行かれて気持ち悪くなったことはある)。だから、他に選択肢がなければ、帰り掛けに他で探すか、家に帰って何か作るか……と、食事自体を省略する。年齢的に若者向けや流行りの味も辛いし、特定の食事環境やグレード、システムに愛想が尽きたこともある。

何よりも、自分で作れないもの、作り難いものを外食に頼ることになるわけだから、選ぶなら高度な調理技法やプロの目利き、多種多様な仕入れが必要で個人には真似ができない料理が最優先にならないか? おいしい鮨や鰻を出す店はまだまだ行き尽くせないほどあるし、天麩羅、蕎麦、トンカツに和食(懐石、会席、郷土料理)、中国料理、西洋料理、トルコ料理、その他料理に甘味や和菓子だって食べたいし、酒もお茶も飲みたいし、酒を飲みのみ料理人や職人と話したり、多種多様なオカズをゆっくり摘んで味わいたい。急かされたり他人の挙動をいちいち感じるような狭い空間だったり、不衛生な環境や煩い騒々しい、池沼店員やセンスのないガサツな料理人などは真っ先に避けたいと思わないか? 別に高価な料理やハイレベルなモテナシを求めているわけではなくて、あくまでも値段なりの食いモノとサービスがあれば良いし、もちろん、相手は機械でもかまわない。

人間の食うものには際限がないのに、そこに敢えてラーメン(うどんやパスタも含めて)やカレーを加える余地というか、行列して並んでまで時間を使うという感覚は理解の外にある。並ばないと食えない鮨屋や鰻屋なんてほとんど聞いたことないし、あったとしてもそんな店行かないだろう? 人気のある店なら予約できるのが普通だ。学生の頃は金がなくて、町中華のメニューの中でいちばん安いラーメンを食べることもあったが、今の人が食べているラーメンはどう考えても違うよね? 並んでいる人の得意気な顔や楽しそうな風体を眺めると、各所を巡礼して食べ歩き自慢できるグルメとして認知・称賛されるものをこぞって食っているわけで、その行為をブログやSNSや口コミで発信し、共感を得るところまでがセットになっているように見える。つまりラーメンを食うというモノを消費するだけではなく、むしろラーメンを食うための行為をコトとして消費しているわけだ。行列を強要する提供側の姿勢もどうかと思う。本来なら客をお待たせしないことが客にとって良い店の条件だと思うが、行列が行列を生むことに味を占めちゃっているから、とことんエスカレートしていくのかね?

“並ぶ”ということと“通勤”はよく似ているというか本質は同じところにある。需要と供給のバランスが崩れたときに利点・利益を得るために制約を甘んじて受容するのが行列であり、それを複数の集団にしたものが通勤で、車なら渋滞だ。これらもコト消費と同じで、満員電車での通勤や連休や年末年始の渋滞も同じくみんなで一緒に、同時にできる、愛好され楽しみにされているコト消費なのだろうと考えている。ランチタイムに飲食店で行列作ってるサラリーマンや休日のモールで行列してる家族連れ、マックにスタバ、アップルにディズニー行列もみんな心から幸せそうで、楽しそう。

ラーメンの場合は販売形態も極めて特異に思う。一度行った近くの個人店はカウンターに座ると店員が注文を取りに来て、食い終わって出るときに会計するという至極普通のタイプだったが、ココや日高屋みたいな後払いの店は実は少数派のように思える。チェーン店ですら入口付近の食券機で前払いを求められるのが普通。まぁ、食券という時点で腰が引けるのだが、いざ重い腰を上げ食券機の前に立ち、メニューを眺めこれにすっか……と思っても、先に進めない。カード・リーダーも、電子マネーのタッチリーダーも、QRコードのリーダーもなく、硬貨や紙幣といった見慣れないアイテムを要求されて困惑してしまう。後ろは苛ついてるしさ(笑)。やはりオレのような貧しく時代遅れなカッペ老人は門前払いということなのだろう。老害は客にあらず。真理です。

爺だけど焼きそばは今日もB級というかD級

賄ソース焼きそば

焼きそばと炒飯にもどうにも希望が持てない。自分でちゃちゃっと作ってちゃちゃっと食う簡便食だから仕方がないことだ。子供の頃、カッペ下層家庭で食う焼きそばは醤油味だったが、テキ屋のあんちゃんが作っていた屋台で初めて食べた100円焼きそばはウースター・ソース味で衝撃を受けた。おおお。同じ頃、街の中華屋で扱う焼きそばもソース味が主流になっていく。ソース焼きそばを辛子で食うスタイルがカッペ部落に敷衍したのは1975年頃か。やがて市販の袋麺の登場と共に添付される粉末調味料もソース味が当たり前になって現在に至ると。大陸や東南アジアにも似た屋台料理は多いが、基本醤油味。ウースター・ソースに近い粘度の低い焼きそばソースを味付けの肝として使うのはかなり独特の文化というか、揚げ物にはソースという方程式を作り上げたソースメーカーの意地と努力が偲ばれるな。

賄ソース焼きそば2

具と麺を合わせ炒める終盤に焼きそばソースを焦がすほどしっかり炒め、最後にどろソースを少し加えている。ソース自体の隠蔽力がずば抜けているので具材に拘る意味はあまりない。誰が作っても似たような味、似たような見てくれ。工夫の余地の無さと芸の無さには酔いが回りケツを捲って遁走という言葉がよく似合う。紅生姜は自分で拵えているので市販品とはちょっと色が違うでしょ?

賄ソース焼きそば3

たまには李錦記の赤缶と鶏ガラ、醤油で焼きそばも良い。上海風なのか広東風なのかは知らん。昔は五目焼きそばといって蒸し麺や固麺に八宝菜を餡掛けしたものもよく食べた。麺は焼きそば用の蒸し麺でも良いし、なければ生ラーメン用の麺を茹でてしっかり水切りしたものを使う。生麺のほうが太さを選べるのと質が高い(値段も高い)からおいしいのは間違いない。

広東風焼きそば

スープは鶏ガラ基調で適当な香味野菜にクコの実を散らす。スープ代わりに八康茶なども優れて相応しい。紅棗(アカナツメ)、山査子(サンザシ)輪切り、菊花、胡麻、龍眼、クコの実、干し葡萄、氷砂糖、青茶などが主流だが組合せは色々あるようだ。ちょっと甘いがさっぱりスッキリ系のお茶で油っこい麺と相性はとても良い。

お友

年に数回、日高屋で中華そばを食べることはあるが、中華そばを食べに日高屋に行くことはないし、鶏ガラ醤油でさっぱりしておいしいと評判のラーメン専門店も昆布に魚介に野菜の旨味と塩味が濃すぎで噎せて以来もう一度という気にはなれなかったが、誰一人頼んでいない日本風焼き餃子でビールはおいしかったし、あくまでもこちらのペースで作ってくれた丸メガネのおっちゃん料理人も気が利くし、価格も良心的でとても良い店ではあると思ったので気を取り直してまた行ってみようとは考えている(Google評価4.3だけどオヤジは腕組みしてないし黒装束でもないしエラソーでもない)。若い頃は町中華などで月に一度くらいは食べていたかもしれないが、勤め人になって千駄ヶ谷のホープ軒だっけ(もう30年近く前)? 昼飯に出かけて、表層1cmの上澄みになっている脂とあまりの塩辛さ、豚骨の臭さとベタベタの環境、野卑な客層に悶絶した。午後、胃が凭れて閉口していると、北九州出身の同僚はあんなのトンコツじゃなかんとですと仰言っておりましたが(笑)。それなら老舗広東中華のセロリ麺や鶏そば、翡翠麺みたいなほうが好みだと悟ったのはその少し後。東南アジアや大陸のオリジナルは見た目も味も(コンセプトが)まったく違う食い物で、普通の日本人が食っておいしいものではないだろう。

八康茶

子供の頃はカップ麺どころかインスタント麺がまだ開発されておらず、乾麺や生麺が流通するのは昭和後半だから、ラーメンはまだ外で食うものだった。そのもっと昔、国鉄荻窪駅の南口には闇市崩れのマーケットがあって、その入口左に中華料理店があり、親に連れられごった返す市場の中に入ると必ず迷子になるから、そこの中華屋に預けられてメニューの中でいちばん安いラーメンを食っていたのがおそらく最初。3、4歳位のクソガキだったが、大人用のラーメンを毎回平らげてチェーシューとシナチクのお代わりを要求していたという逸話付き。チャーシュー、シナチク、ほうれん草、ナルト、ネギのみの普通の透き通った鶏ガラ醤油に煮干し出汁、ごくあっさりした中華そばだったと記憶している。まぁ、当時のラーメンは蕎麦屋のかけそばみたいなもので、素朴な最安メニューとして置くけど普通の人はビールにワンタン麺や鶏そばといった具が入っているモノを頼むか、出回り始めた餃子や一品料理を付けていたように思う。

駄菓子に近いチキンラーメンを除くと、インスタント麺(今でいう袋麺)が出始めたのは60年代後半に入ってからで、当時は今よりもっとまずくて、試しに食べた誰もがマズイなぁと笑っていた。今の乾燥麺は技術的に食感が大きく改善されているけど、やっぱり生麺とは別だし、カップ麺はカップ麺で独特の風味があるように思う。どちらも後付スープが濃過ぎで半分も食わないうちにウンザリする。比較的高価な冷凍麺やレトルト・パウチは食べる機会がないし、食べようという気もないので正直わからん。袋麺がカップ入りになったのは70年代初頭。カップヌードルも容器のプラスチック臭で食えたもんじゃなかった。その頃から斜陽の蕎麦うどんに見切りをつけ、見様見真似で覚えた町中華が乱立し始めるが、それから50年の月日が流れ、1代は継承された暖簾もその後継者に引き継がれることは稀で、今、周囲の町中華はほぼ死に絶えた。

貧しい家庭のつけ麺もどき

つけ麺というのも老若男女の胃袋を鷲掴み(痛そう)にしているらしいが、ラーメン店のメニューに載っていることもあれば、つけ麺専門もあるようだが出てくるものはほぼ同じと思われる。昭和のつけ麺は冷麦と麺が違うだけの家庭料理。冷やした中華(鹹水)麺を冷たい蕎麦つゆと薬味で食べていたが、元祖大勝軒(名前くらいは知っている)? の系統にある今は太麺を熱い濃厚ラーメンスープを濃縮したタレで食うスタイルをつけ麺と称するのだろう。どうもあの甘辛煮豚チャーシューと半割煮玉子、下ろし生大蒜と刻み葱、過剰な脂と塩の濃厚コクたれの世界はラーメンよりヤバそう。近づくべからずとオレの本能が告げている。

老境つけ麺

もちろん冷し中華はラーメンの風下にも置けない。アイスコーヒーが天が崩落しても熱いコーヒーに敵わないのと同じだ。この辺りの気候では冷やすという工程が思いも掛けずに煩雑なので、要望があってもあまり作りたくないメニューだが、外で食うと輪を掛けて貧弱で安直で中途半端で萎える。一度食べてはみるが、リピートすることはない。家で食う場合もつゆを前日に作り密閉して1℃で保管せねばならないし、酢が萎えるので直前に冷やした酢を加えたり、器も半日前から冷やしておく必要があるし、とにかく面倒極まりない。もちろん具材もキンキンに冷やすものと一旦温めて常温に戻すものとあり、麺は茹だったら手早く氷水で締めなきゃならんと、とにかく温度管理とスピードの維持が面倒な食い物の一つである。そこさえクリアすれば、後は載せるだけ。どうでも良いヴァリエイションはいくらでもあるが、所詮は麺とつゆですべてが決まる。とことん芸のないメニューである。

賄冷やし中華

外食ではおしゃれにスタイリッシュに盛り付け、麺と具を別皿にして出してくる店もあるが、具材(特に既製ハムの場合)や調味料の質が露骨に出てしまうので失望は否めない。つゆやゴマダレをやたら甘くするのも安直極まりない。辛子がチューブだったり、代用? のマヨも勘弁してくれ。

賄冷やし中華2

カレー

加齢とともにカレーを欲することもなくなり、まぁ、素材の隠蔽力には優れているから巷にはカレー味が溢れているが、今やカレー味の加工食品を含めて無くても全く困らないというか、気にならない。スパイスは各種取り揃えているから二ヶ月に一度くらいは自分で偽カレーを作ることもあるが、カレーの店“すき家”で食ったのは、もう1年以上前のはず。まぁ、要するに子供の食いモノなんだね。ファミリィが和気藹々で食うのは良いけど、萎びた糞爺がニヤけながら一人でモソモソカレー食ってたら気持ち悪いだろ? インネパ屋も巨大▽ナ~ンのインチキ・マサラにウンザリしてもう3年以上、足を踏み入れることはなくなった。ちょっと前から流行りだしたスープ・カレーやスパイス・カレー? というのも頭軽い人向けの子供騙しにしか思えん。典型的な旨みたっぷりと炭水化物の饗宴に郷愁を感じない訳ではないが、どちらにしても限りある貴重な飲食の機会をカレーなんぞに費やすことは出来ないというのが最近の見解。インドやタイの口が曲がりそうな正宗はときどき食べたくなるかな。ラッキョウと福神漬けとうるち米で食うやつは数年に1回作るか作らないか。そうそう、カレーパンは出来合いが標準だから一時期面白がって買い集めていたことがあるんだが、高価でおいしい? ものほど極度に旨味過多で、パンはしっとりぬちょぬちょ、揚げ油はパーム油で食ってる途中で飽きる。

ハンバーガー(ハンバーグ)

まぁ、Junk一般も食う機会は激減している。レストランでメニューを開いて最初に撥ねるのがハンバーグ類すべて。メニューの頭にハンバーグ載せてる店って、要するにウチにはマトモな料理人がいませんって宣言してるようなもの。ハンバーガーもヌルい程度に温かくても、旨くもなんともない。たまに懐かしくて食ってみても、やっぱり、きっちり期待を裏切ってくれる。挟んでいるバンも質悪いし、パテもペラペラでモソモソ。ポテトもシナシナだし、残念ながら幼少時から正義として刷り込まれてきた世代からは外れているのだろう。かといってモスやフレッシュネスやバーキンやロッテリアやドムドムが旨いかと言われるとウ~ンと唸るまでもなく、これも既に興味と関心の外。ご当地やクアアイナもどうかな? 貧弱なアルコールと色が付いているだけのマズい飲み物、安っぽくて不潔な店内環境、モバイル・オーダ何それ?の注文行列、ガキとママ、群れる学生、どれをとっても腰が引けるというか、どこにも爺の居場所はないものだ。

スーパーの肉売り場に置かれていたハンバーグ用生肉調整品(繋ぎで練られて扁平球状になった4つの塊計400gくらい)を提供するからオカズを製作せよとの下命を受け、原材料名などは極力見ないようにして取り敢えず黒胡椒とナツメグを振っておく。

付け合せになりそうな具材は人参とピーマンしかないわ。ソースは和風でない場合ドゥミ・グラスが世間一般なのだろうが、あの甘くて隠蔽力に優れたハインツのデミグラが大手を振り過ぎで、それはちょっと違うのではないかと常々考えていた。大蒜、玉葱、ブナシメジを炒め、西洋松露をスライスしてたっぷり加える。フォン・ド・ボーを加えひと煮立ちで赤葡萄酒とアルチェ・ネッロのトマト・ピューレ100ccくらい。塩胡椒で調味して少し煮詰めてソースは完成。

ちょちょい

昔は牛脂やバターで焼くのを好んだが、今は殆どオリーブ油。両面に塩胡椒を振って熱したフライパンへ。片面焼いてひっくり返したら赤葡萄酒、蓋をして火を弱める。タイミングを合わせて付け合せ、ハンバーグ、ソースが出来たら皿に盛りつけ。ハンバーグはいろいろな混ぜモノが加えられているのだろう。肉肉しい感じはないのにかなり脂っこく、柔らかく、濃厚な旨味にソースが負ける(笑)。

添え菜

挽肉が古くなったときはハンバーグがふさわしい。牛の粗挽き挽肉250g/人を冷たいまま、岩塩、ハーブ岩塩、黒胡椒、パン粉、赤葡萄酒でチャチャっと練る。練る時間はせいぜい数分だ。赤葡萄酒を肉にたっぷりと吸い込ませてやることが肝要である。まとまったら両面にインド産黒胡椒をガリガリと挽きペチペチして肉に埋め込んでトレイに載せて冷蔵庫で一晩。置いたほうが馴染むというか、葡萄酒の水分が隅々まで行き渡り、結果的においしくなる。世間のレシピはもっと色々混ぜモノするのだろうが、合挽き肉二人分で300gなんて、ちょっと少なすぎないか? 腹の足しになるんか。

素

人参はソースパンで下茹でし、茹で湯の半量にレトルトのフォン・ド・ボーと赤葡萄酒を加え、弱火で軽く煮立てる。冷蔵庫から出したハンバーグを冷たいままオリーブ油で中強火で焼き始めたら、フライパンの余白で茹でた人参、ピーマン、スライスした西洋松露と二つ割りのマシュルームを軽く炒め、人参とピーマンは取り出し、西洋松露とマシュルームはソースパンに放り込む。ハンバーグの底面に焼き目が付いたら反転し、大蒜のミジン切りと赤葡萄酒を加え蓋をして弱火で蒸し焼き5分くらい。フライパンの赤葡萄酒と肉汁をソースパンに加え、火を止め蓋をして更に5分余熱で火を通す。その間に、ソースパンにパセリの茎、アルチェ・ネッロのトマト・ピューレを加え塩胡椒で少し濃い目に味を調える。一見、重甘いドゥミ・グラスに見えるが、そこまで煮詰めずキノコが香るサッパリ爽やか系のソースが目標。

黄昏バーグ

付属はポテト・ポタージュ・スープとトマト・サラダ、廉価スーパーの見切り品のパンにクリーム・チーズとHeroの黒チェリー・ジャムを挟んで焼いたもの。

お供

饂飩

人が貧しい故に食文化も貧しいカッペ寒村。豊穣な饂飩文化を誇る西日本とは異なり、氷見や水沢、稲庭や武蔵野うどんといったローカルな饂飩、味の民芸なる北関東出自のチェーン店もあれど、あまり積極的に饂飩を食べるという風習はないような気がする。チェーンの饂飩屋に関しても良い思い出がない。まぁ、チェーンの蕎麦屋よりはマシなのは間違いないが、以下どちらも最後の訪問から10年以上が経っていて自分でも少し驚いた。山田うどんは比較対象にすらならず可哀想(笑)。

丸亀製麺(2011/1130)の思ひで

丸亀製麺には生涯を通して二度訪問した。その2回とも今は撤退して他の飲食店になっている街道筋の郊外店。以前の文章には書いていないが、以降2度と行かなくなった理由はよく憶えている。

学食みたいにレーンを移動しながらトレイに注文品を載せ、会計へと。会計を済ませるとその先に葱と天カスが置かれたコーナーがあって、必要分を自分で盛り付けるシステムになっているのは多分今も同じだろう。で、トレイを葱の前に置こうとしたら、35~40くらいのオッサンに割り込まれた。順調に街道を流していたら脇道からオットとブレーキを強めに踏むようなタイミングで割り込まれた感触だ。其奴は何ら悪びれることもなく、ステンレスのトレイから葱を取る。取るわ、取るわ、割り込まれた上にチンタラ走られて何だよコイツは? と思うアレだ。それでも、すぐに空くだろうと思ったのに、手にした丼に葱を山盛りに盛り続けて、呆気にとられるオレをチラッと横目で見てニって笑ったんだな。ようやく天カスに移動したので前が空き、葱を取ろうと思ったらステンレスにこびりついた葱の残骸のみでスカ。投げ出されたスプーンかトングが転がっていた。

唖然とするオレを後目に今度は天カスを山盛りにして、やっぱりスプーンをトレイに放り投げてカウンター席へ。まぁ、店員を呼んで補充させればよかったのだが、転がってるスプーンを見たら嫌になったので、そのまま空いているカウンター席へ。昼前だというにガキが絶叫して駆けずり回り地下鉄車内並みのママ騒音のテーブル席は満席で近づけない。仕方なくさっきのオッサンと中5席ほど空けた位置にトレイを置いて、チラッと其奴を眺めると、テンコ盛りの葱天カス丼に卓上の天ぷらソースを多分一本ダバダバ回し掛け、最後に七味をドバドバ。箸でザクザクしながらかき込み始めたのを眺め、目を逸らした。

嫌なものを見てしまったなと、急速に落ちる食欲をまぁまぁと宥めつつも、冷えて衣がバリバリの天ぷらに愛想を尽かし、硬いだけの饂飩も半分も食わずに下膳口にトレイを押し込んだ。その時点では偶々そういう目にあって残念でしたというだけなのだが、しばらく後に、ネットニュースの提灯グルメ記事で、天丼用の丼飯だけ購入して、無料でかけ放題の葱と天カスで飯が食えて、超安上がりで腹一杯で嬉しい最高日本一までは、まぁ、クズライター作のよくある内容だが、店としてはその行為を推奨レベルに近い容認としていると読んで、オレの飲食店の範疇からは完璧に放逐された。さよおなら。

はなまる(2012/0220)への邂逅

こちらももう10年ほど前になるか。リーマンが崩壊して景気が悪かった頃。駅前のSCの地下フードコート。改修で数年閉まっていたSCが復活して新規出店だったはず。コチラは正真正銘讃岐出自の饂飩チェーンだが、当時は既に牛丼吉野家の子会社になっていたはず。そういえば駅を挟んだ建物にあるカレー饂飩の千吉ははなまるの子会社。みんな饂飩好きなんだなぁ。ちなみに「ぶっかけ」という食べ方を知ったのはこの店ではないがどこかのはなまるで。生涯で3回目くらいの利用。それ以前どこで食ったのか、記憶はまったくない。

当時まだ健在だったが足が弱っていた親の買い物サポートで、疲れたから座りたいというのでいちばん近かったのがはなまるの椅子だった。饂飩食うか? と訊くと食べるというので、かき揚げうどんを頼んでセルフだからトレイに載せて自分の分と合わせて2往復。当時は現金のみでこまい釣り銭に辟易しながら運んだ記憶が残っている。で「うまいか?」と訊くと、「まずい」。それだけ(笑)。ろくに中身がない野菜のかき揚げに平凡で太めの固い饂飩、いりこ出汁で関西風を狙ってるのだろうがヌルくて安っぽいだけのつゆ。食べてるうちにかき揚げの油がどんどんつゆに溶けて、あまりの油っこさに冗談抜きで箸が止まる。饂飩は温めてそのままつゆにドボン。揚げたての野菜かき揚げとはいえ、切れっ端のクズ野菜を最大限にふかした油と小麦粉の塊をここまで見せるテクニックには感心した。

すっかり国是のように成ってしまったラーメンとカレーは古の和食の対極としてよく似ている。和食の味の構成が無駄や雑味を削ぎ落とし、素材の味を際立たせるマイナスの美学に立脚しているのに対し、ラーメンやカレー(あくまで現代日本食の)は異なる旨味や味わいを加味添加、常軌を逸した複雑化するという意味でソース文化である西洋料理に近い。今のラーメンやカレーはその西洋料理の地点を超えて、もはやSNS映えする際限のない濃い味濃いコクの地平でゲテモノに成り果ててしまったというのが率直な感想(笑)。糖尿と高血圧と腎不全が捗るな。味にウルサイ日本人の宿命ですか。

爺なら生姜くらい自分で漬けろよ

新生姜

ご尤もで。今年は最終的に2kg弱を漬け込んだ。初夏の初回は150円/100g(写真)。夏に入ってからは80~100円/100gぐらい。甘酢生姜(ガリ)も紅生姜も安価に既製品が入手できるので、我ながらカッペ老の独りよがりな愚行にすぎないと思いつつ毎年拵えている。瑞々しい根っこを選んだら、流水に晒しながら爪で茶色い部分をこすり取る。赤い部分は色素になるのでなるべく残す。繊維方向に薄切りし沸騰したたっぷりの湯で再沸騰するまで湯掻き、ザルで水切り。冷めたらガリはそのまま甘酢調味液に、紅生姜用は刻んで赤梅酢に漬け込む。冷蔵数日で味が染み込んで良い塩梅になる。赤梅酢は梅干しを漬け込んだ副産物。

ガリ+紅生姜

2022/08/30 作成__2022/08/30 最終更新