概ね晩夏

今どきコンビニでは払えない国税を払いに郵便局に行くと、損金扱いになるから保険に入れ入れとしつこく勧誘されて煩くてかなわんが、「保険に入れない躰なんです」と公言するのも憚れて、いつもヘラヘラ笑って誤魔化している。過疎化が著しい最寄りの店舗は昔風の仕切りを取っ払って、ようやくカウンタータイプに変身。中の人も昔に比べると驚くほど親切になったけど、客は耄碌爺婆に輪を掛けたベトナムやらミャンマー人でてんやわんやだな(笑)。郵便に課している、永遠の赤字の根源ともいえるユニバーサル・サービスはそろそろお役御免にしてやってもいいんじゃないか? 距離や集配・配達効率で料金を変えるのは自然なことだ。小学生から英語やプログラミングに馴染む時代なんだから、最早「紙の郵便」の遣り取りなんて特殊な業務用か極めて趣味性が高い嗜好品のようなものだろう? 未来の無い創造性のカケラもないことに無駄にコストを掛け続けるのは、もはや不公平を越えた社会的不正のレベルに近いと思うが。

回転寿司は食い物の100円ショップ(“はま”は平日90+7円だが)だから、何を食っても安かろう悪かろう(今年の春やっていた1000円くらいするスシローの天然本鮪のプレートは除く)。ただ、質はともかくとして小振りで多種多様なツマミがあって、酒がソコソコ飲めて、居心地がまぁまぁで、腹いっぱい飲み食いしても3000円前後、禁煙が常時保証されていて、カードで済むあたりが存在意義か。残念ながら、はま寿司は生ビールのジョッキが)(型の一回り細いものになっていた。以前は||型で500mlはありそうだったが、今は350mlあるかね? 日高屋のジョッキもスリムで小振りに変わっているし、サーバーの管理状態が悪いと臭うし、もうジョッキは止めて瓶にすることにしている。世の中には「A pint of beer」と注文すると容器の形状はともかくとして、容量は厳格に守るContractの文化と、価格は変えないで容量をこっそり減らす上げ底/建前の文化がある。昔はいろいろ思うところもあったが、どうでもいい話。

2度ほど連続で、ガラガラ(一列15席あるカウンター席に2人)なのにペッパー君の発券握りしめ、隣席に強引に座ってくる青臭い兄ちゃんと汗臭い営業サラリーマンに遭遇した。見目麗しき美女ならともかく、適度に散らかしたグデングデンの酒臭いかっぺ親父の隣に座り込んで、寿司3、4皿と無料のアオサ汁を飲んで帰っていく人たちの了見が全く理解できない。気持ち悪くて仕方ないので、最近は一人でファミリィ用のテーブル席を占拠してマッタリと酒を呑むことにしている。明るい内にしか行かないから、ベルト側を除く前後側面で女子高生がケーキやラーメン食いながら奇声あげてキャッキャしてたりして、それはそれで世も末だわ。

バジリコ

大量バジリコの在庫一掃に最適

通称ジェノヴェーゼ等として様々なタイプのレトルト・パウチや瓶詰めが売られているが、月とスッポン。まぁ、ここまでインチキな加工品も珍しい。鮮度の良いバジル、松の実、オリーブ油と、価格が素直に味に反映する材料のみで構成されているあたりがその理由。摘んだばかりのバジリコは売り物とは香りが全く違うし、ほぼ人件費=価格の松の実は中国産とはいえ高価だ。

Genovese

フードプロセッサでバジリコ、松の実、大蒜、オリーブ油を適度に撹拌すれば出来上がり。パスタに使うときは適量の塩と胡椒を加えればOK。インゲンとジャガイモを加えるのが正宗らしいが、オレは帆立の貝柱の方がいいや。麺はAgnesi(アニェージ)のリングイネで決まり。

Genovese2

毎度変わり映えのしないいつものラグー

チーズがボロボロ崩れて見苦しいな。外食だと白鬚葱のように細い繊維に削って出てくることがあるが、よくあんな風に削れるよな。電動の削り出し機でもあるのだろうか? 麺は同じくAgnesiのフェットゥチーネ。卵入りでシコシコした茹で上がり。

Bolgnese

麺はいつものDivella。香りが飛ぶから食べる直前に削ったパルミジャーノ・レッジャーノを適当に盛り付ける。ソフリットは玉葱+人参+セルリだが、ミジン切りの玉葱が原型を留めなくなる程度に煮る+冷ますを繰り返す。余ったら冷凍。

Bolgnese2

肉は粗挽きの牛肉に越したことはないが、ネスパの安売り品でも我慢はできる。バジリコは花が咲いちまったので毟ってきた。

カプレーゼ

こういったパスタを使う洋食風のランチの場合、前菜はカプレーゼでお茶を濁すとしても、パスタに続き何をメインに持ってくるのか? というのは意外に難しい。

赤葡萄酒煮

まぁ、赤葡萄酒煮か、凡庸に焼肉か、というあたりは手間がかからないからよくあるパターンだと思うが、ミートパイだと挽肉が被るからポルケッタか、鴨肉のいちじくソースもいいか。

牛焼肉

ふるさとは遠くに在りて思うもの

今年の「ふるさと」はどこにしようかの? 毎年増えていく「ふるさと」のせいでもうどこがどこだか(笑)。まぁ、「ふるさと」と言われても兎を追う山はなかったし小鮒を釣る川もなかったわけで、釣り堀で鯉を釣ったことはあった。ドブ川になる前の谷地を流れる幅が3mほどの川はまだ護岸がなくて、岸辺に吾亦紅の花が咲いていた。あるときその川に架かる小さな橋で人だかりがしていて、パトカーの赤色回転灯が回っていた。大人の股をくぐって前に出ると、うら若き美女が筵に寝かされていて、その死顔が蝋人形のように青白かったことを憶えている。もちろん、速攻でつまみ出されたわけだが、耳に入った「心中」という言葉の意味を誰一人教えてくれなくて子供ながらに怒りが湧いたことは覚えている。

で、この“ふるさと納税”、ありとあらゆるバラマキ型公的扶助制度の対象にならず税金取られまくり、マイナスサム一辺倒のかっぺジジイでも適用対象という、お上公認の優れた納税制度である。肝は所得控除ではなく税額控除にあるわけで、原理的、本質的にはどう考えてもお笑いというか、公金バラマいてモラル崩壊を促しているに他ならないわけだが、個人にしろ法人にしろ税金払ってない人のほうが多い、タダ乗り+ぶら下がりさんがデカイ顔をしている社会なんだから、消費税と年金以外の不公平極まる税制と徹底して逆差別的な行政サービスに日常的にうんざりしている納税者にとっては唯一の意趣返しだろうし、地方自治が議会も含めて本来の機能を果たしていない現状を見れば、微々たる額とはいえ、配分先を変え得る嫌がらせ方策としてはおもしろいよね。まぁ、減った税額の75%は国から補填される(地方交付税不交付団体除く)わけだから、身骨に響くには程遠いだろうし、東京に至っては築地だぁ豊洲だぁって遊んでるわけだし、電柱埋めてオリンピックやるほど余裕綽々ぶっこいてるわけだしな。毎度お馴染み世紀の愚策のツケは後世の人が払うことになるが、後始末はよろしく頑張ってくれ給へ(笑)。

寄付を受ける地方自治体にとっては事務手間・委託手間は増えるにしても、上手くやればそれを遥かに超える税収が生じるわけだし、返礼品の選定に際しては地場産業や関連企業に対する絶対神レベルの利権が発生するわけだし、天下りやら定年後再雇用先の確保にも事欠かなくなるとイイコト尽くめ。人気自治体の返礼品に選ばれた業者も青天の霹靂、苦労して販路を確保する必要もなく、お上のお墨付き広告まで打ってくれて、言い値で捌けていくんだから笑いが止まらんだろう。その効果は依存性の高い麻薬並みだから、もう止めるに止められんだろうね。どうせなら出ていく金、入ってくる金に対してレヴァレイジ50倍とか100倍にして、自治体間の競争を煽り倒すくらいがおもしろいよな。

多くの自治体では建前上の美徳的観点から寄付の使い道を限定する選択肢を提供しているが、○○の懐とか△△の飲み代、囲ってる愛人の御手当みたいな真摯に心情を吐露した項目がなく、建前だけの胡散臭さだけが鼻を突くのでいつも使途無制限にしている。利権を扱わせたら天下一品の政権党と官・財のタッグマッチは正に無敵といえよう。

ああ無情

仕事柄現物の現金に触れる機会がまったくないので、電磁気的記録を現物としての紙幣などに交換するには、防犯カメラに拒否されない程度に風姿を整え、指定された場所に限られた時間に出向き、見ず知らずの手指の脂や細菌で汚れたタッチパネルに触れつつ、融通の効かない薄ら馬鹿な機械を自ら操作し、盗難や紛失、忘れ物に気を配り、財布に格納して運搬するわけで、掛かるコスト(=逸失利益)は金利なんぞでは足しにもならんのだが、例えば我が底辺かっぺジジイ御用達のすき家でウナビー長居をしていても、会計で皿に小銭をチンチャラ投げる音は聞こえるが、電子マネーの決済音やカードや小切手が切られている素振りもなく、取得や維持コストが高くて貧困かっぺジジイには手が出ない小銭や紙幣を持ち歩いておられる徳と仁の塊のような方々ばかりで、ひたすら驚きを禁じ得ないものである。

一方、魯鈍かっぺジジイが生き長らえている過疎寒村にも、大手を中心に少額決済のキャッシュレス化が浸透し始めてきた。すると、財布の中の現金の額をまったく管理しなくなるから、紙幣や小銭との交換を強制される店には尚更足が向かなくなる。相変わらず中小小売や飲食ではまだまだ主流なわけだが、店にとっては無記名の現金取扱いほど面倒で気を使うことはないわけで、釣り銭を用意(手数料取られる)しなくちゃならん上に、レジを締めて金額が合わなきゃ原因を追求(心労の種)しなくちゃならないし、売上金持って夜間金庫に出向かなきゃいけないし、規模によっては警備を雇ったり、余分な時間外人件費も必要になるわけで、カード会社へ支払う手数料(一般的に3.24%、大手はもっと低い)を遥かに上回るコストが掛かっている。実際、現金/カード比が半々だとしても2%ほど価格を上げるか、お得意の質・量を落とせば済む話なわけだが、カード払いや電子マネーの割合が増えれば、売上ちょろまかして所得税、個人事業税、法人税とインヴォイス無しで抜け道だらけの消費税を“何のことやら? ホイサッサぁ”することが確実に難しくなるんだな。売上が1000万以下なら客から預かった消費税をすべてフトコロに入れて良いんだから、フツー考えることは手に取るようにわかるよな? 実際、上場企業ですら7割が法人税を払っていないわけで、中小や個人事業主に至っては何をか言わんや。もちろん当局もその辺りのインチキを見越して世界一高い法人税と問答無用の法人住民税を課しているわけで、とばっちりを食うのは売上が1円単位まで完璧に補足されてしまう上に、テメーの給与を圧縮してまで常に黒字決算を続け、2年おきに国県市のありとあらゆる税金と社会保険料を完納している証明を出さなければ仕事ができないウチのようなポンコツ家業だという、何という理不尽にして不条理。

■三つ葉■

冬に根三つ葉を買い、可食部を食い切った後、残った根を鉢に植えておくとしっかり再生して盛況だ。三つ葉なのに一枚の葉が大葉並み。花芽が立つと固くなるので見つけ次第芽は摘む。一年草だから秋まで持たないことが多いが。最近のスポンジ植えの水耕栽培の三つ葉は発根抑制処理がされていると思われ、水に挿しておいても根が出ないで腐ることが多い。

三つ葉

ラーメン

あまり中華麺に三つ葉は使わない気もするが、葉物野菜がないときには十分代用になる。シナチクは業スーで水煮1kgを買って来て、自分で味付けしたもの。味の付いた既製品は高価だし不自然に旨味を強調した甘クドい味付けが許容範囲外なので面倒だが仕方がない。

支那蕎麦

カツ丼

一般にトッピングは刻み海苔やグリーンピース、或いは青葱? だったりするようだが、かっぺムラのカツ丼や掻き揚げには三つ葉が必須。一般に熱い飯にキャベツの千切りを敷き、揚げたカツを載せ、凝ったトッピングとソースやマヨで飾り付けるのが基本のようだが、かっぺムラでは玉子で綴るのを古くからの習わしとしている。厚さ2cmほどの背肉カツ煮を作る段階で2回に分けて溶き卵を流すわけだが、その2回目の直前に三つ葉を散らす。見栄えは悪いがカツはお代わり自由なので2段積みにした。もちろん、世を憚るかっぺカツ丼は玉子で綴じ、下に敷いた熱い炊きたての白飯と上に載った具が仄かに香る鰹出汁のつゆで絶妙のバランスを保ちつつ一体化したものであって、別皿のおかずを載っけただけの“器を減らしたい丼”といった陽の当たる王道を行く世間様とは無縁である。鶏肉は好きじゃないから自分で親子丼は自ら進んで作らない。冷めた丼に用はないから丼は蓋付きであることが必須。蓋が閉まらないくらい具を盛る天丼の場合は蓋を縁に添える。エビやキスの尻尾の残骸置場が必要だ。カツ丼が残ったカツの再利用として考案されたように、天丼は揚げて時間が経って、天麩羅としての価値を失って、そのままじゃ食い難いものを、熱いツユに潜らせて再生しつつ白飯と一体化させ、決して元の揚げたて感を期待するわけではないという、どう考えても食味改善を兼ねた残飯処理的賄い飯。

カツ丼の夏

きちんと古式に則って漬けて作っている漬物は手間隙かかるから非常に高価で、とても手が出ないから浅漬けぐらいは自分で作る。丼ものに漬物は必須の組み合わせ。蕪は特有のぬめりがあるせいか、漬物や味噌汁の具にすることが多いが、根菜部はもちろん、葉、茎も上質な漬物になる。

蕪浅漬け

牛丼や海鮮丼、カレーライスあたりが諸悪の根源だろうか? 何でもかんでも白飯の上におかずを載せて〇〇丼や“ぶっかけ”にして創作料理と称するご時世であり、丼じゃなくても飯とおかずを一緒の皿に盛り付けて混ぜて食べるって、食のお子様ランチ化もここ極まってますな。箸が持てない、持てても摘めなくて、おかずを載せたご飯を先割れスプーンで食う老人介護食と同レベル。うちは無教養な下層民の家庭だったけれど(だったからこそ?)、子供の頃にネコマンマは厳禁だったし、フリカケやお茶漬けも良い顔はされなかったし、ご飯に掛けて良いのは卵と納豆だけだった。卵は食わないから知らんが、納豆も飯とグチャグチャ混ぜるのは論外。カレーライスはカレーと飯をキチンと分けてスプーンに載る分だけ一緒に食えと。実際、和食だって懐石なら最初に飯と汁、酒をぐいぐい飲みながらおかずを食って、ヘベレケな酔いを庭の散歩と濃茶で醒ますわけだし、会席なら酒でおかずを摘んで、グデングデンになったら飯と汁と漬物で締めるわけで、少なくともソコにはおかず掛けご飯が登場する余地も機会も無かったはずなのに、文化としての和食を捨てて得たものが下品な賄い飯の成れの果て(=餌)にしてお子様ランチって、受けるわ。感動しました。

冷やし中華や朝鮮冷麺はもとより、饂飩には“ぶっかけ”なるオカズを饂飩に載せて食うメニューが有るのは知っていたが、驚いたことに、今や素麺や蕎麦にまでオカズを載せて食うのが普通、というかむしろ多数派に成りつつあるようだ。当然、麺は味の付いたツユに漬かっているわけで、食ってる傍から伸びると思うのだがそれでもいいのだろうか?

温かい蕎麦だって、茹で上がったら冷水でヌメリを洗い落とし、締めてから沸騰した湯に再度潜らせて、温めたツユに盛り付けるわけだし、冷たい蕎麦ならヌメリをしっかり落としたら、氷水でキュッと締めてザルに盛り付けるもの。ところが、麺類における基本とも言える締めの手順を省略する作法がすっかり蔓延してるどころか、今は手を抜くことが美徳の一種ですらあるようで。こんなことをうっかり口にすると、変態か変人扱いは免れないものだが、エッジの立たないソフト麺が大手を振って歩く世に既に関心はない。

まぁ、この歳になれば、食文化の違いは生き様の違いということがよく分かるわけで、それは取りも直さず棲んでる世界が違うっていうことと同義であって、そこでは言葉による意思疎通には既に希望がない。大昔、子供なりにそれなりの価値共有と信頼関係があるとばかり思っていた女の子に「棲んでる世界が違う」と言われ、その取り付く島もないあまりの言われように呆けたように絶望したものだが、今再び、世間様からはかっぺ爺はさっさと退場!の烙印を押されているのだろう。まぁ、特に未練はないし、放って置いても時間は間違いなくそれを実現してくれる。粛々と。


2018/08/15 作成__2018/08/15 最終更新