再生への長い道のり


大規模小売店に並ぶ中国産(含台湾産)鰻がもの凄い勢いで値崩れしている。3P(P=piece。1kgあたりの匹数)が2月に3尾パックで1000円だったものが、3月に入って880円に落ち、4Pなら780円(260円/尾)と笑いが止まらないので、台所がもう鰻屋状態。酒の摘みに一匹状態。いいのか? こんなに安くて。“信義”とか蔑ろにしてないか? 冷凍モノとはいえ賞味期限が切れかかっているのか、国産品として流そうとキープしていた在庫が需要減退とともに一気に市場に溢れ出たといった状態か? と、3尾で700円割れしたら朝飯は鰻とビールにしようと思っていたら、唐突に市場からすべての鰻が消えた。呆気にとられるもなにも、流通もいよいよ不可解な様相を呈してきましたな。一方で、今や燦然と輝く「中国産」のラベルこそ、まずインチキがありえない最も信頼性の高い産地ブランドである。産地の違いを見抜ける舌(とこだわる信仰)など持たない身の上で、ただの一度も見たことすらない四万十川の天然鰻に幻想を見れるほど若くはない。

問題は、見ただけで腰が引ける濃い甘ダレを塗りたくったベタベタの中国加工鰻を如何に食えるものにするか? だろう。安物の蒲焼の味は鰻本体よりもタレと焼き方で決まってしまうものだ。このタレは日本のタレ専門メーカーが製造したもので、蒲焼海外生産の黎明期から現地産ウナギに合うタレを研究し、身肉の臭みを適度に隠蔽し、冷たくなっても食うに耐え、蒲焼の状態で解凍して陳列してもタレが流れ出さないように、現在の濃い口の粘り気の強いタレができたということらしいが、いわゆる鰻屋の鰻とは似て非なるものであることは周知の通り。鰻自体は国産と変わらないジャポニカ種だし、以前に比べれば機械焼きも蒸しも大きく改善されており、関係各所の努力は評価すべきだろう。一方で、炭火焼きを売りにしているものがほとんどであるが、今時の高度に自動化、機械化された工場ラインで、“職人が炭火で焼く”という工程を加えることは不可能なわけで、実際はラインの極一部に炭火の工程を組み込んだり、「タレ」に「炭焼フレーバー」を混ぜてそれなりの風味に仕立て上げているだけだろうと推察される。

3尾パック

タレ一考

夏に鰻を食べることを伝統的な食文化の様に捉える向きもあるが、クリスマスにケーキを食べたり、ヴァレンタインにチョコレートを送ったりの類と同じく純粋な販促であって、風物詩と称しては語弊があるだろう。本来風物詩とはその季節に最も旬であり、象徴的なモノに与えられるべき称号である。夏の盛りに脂っこい熱々の鰻を食べるなんて傍から見ても暑苦しくて粋じゃない。野暮をことのほか嫌った江戸庶民ならば尚更だろう。だいたい、暑くなると布団や冬服、火鉢といった冬モノを片っ端から質に入れ、借りた金で日中はぐうたら昼寝して、日が翳ったら、ちょっくら風呂に出掛け、サッパリしたら蕎麦屋で軽く一杯やりながら盛りを啜り、給仕のみっちゃんのお尻を触って茶をぶっ掛けられて(習い事に出掛けてイケメン師匠に色目を使い)、ホウホウの体で河川敷で夕涼みして(籠絡して散歩に誘い出し)、花火に見蕩れてたら(せっかくいい雰囲気になったところを)薮蚊の大群に襲われ、夜店を冷やかしながら滑稽本を眺め、小腹が減ったら移動販売の鮨屋を呼び止め、芝居小屋で人情モノを楽しみ(心中ものに涙して)、来週の上演スケジュールを確認し、汗水垂らして捕り物してる役人をダセーと罵り(ドンクサと鼻で笑い)、匂いに釣られ屋台で天麩羅を一櫛齧り(黄粉餅を頬張り)、年間パスポート券でもう一度湯に漬かり、オカアチャン(旦那)を懐柔するために団子を包ませて(酒を抱え)、鼻歌を歌いながら家路につく――と秋の風が立つまで悠々バカンスしていた人たちが夏バテしたとはとても思えないのだな。

江戸の蒲焼は蒸しを入れることで脂を落とした淡白な魚料理であったことから、タレも銚子や野田の醤油と酒、みりんで作り、煮詰めずにあっさりとしたタレが一般的であったのだろう。砂糖が高価で希少だったという事情もあったと思われる。残念ながら現代の“秘伝のタレ”は、概ね不自然なまでに強調されたコクと旨味、濃厚な甘味が渾然一体と化していて、個人的には腰が引けてしまう。昨今は世間の情勢を如実に反映してか、煮切りから作った辛口のサラサラダレは殊に肩身が狭いようだ。甘味をコクの一部と考えるか、くどさの一因とするかの違いだが、卵焼き以外の日本食は概ね西(一般的には南)に行くほど砂糖の含有量が増えてタレも調味料も甘くなる。関東平野より北で鰻屋に入ったことはないので北の事情は知らないが、東西軸で見れば鰻のタレの境は個人的に三島あたり(焼きは大井川かなぁ)ではないか? と考えている。その境界が年々東進しているのは、酸味や苦味を徹底的に排除して、甘味とコク(アミノ酸の旨味)を偏重する昨今の味覚に対する嗜好の変化に合致したからなのだろう。

ところが、首都圏一円に限った場合でも都心からの距離に比例してタレは濃く、甘くなるから面白い。利根川や荒川流域はかつて(正確には今でも)鰻の産地であって、その支流も含めた群馬南部、栃木南部、埼玉平野部、最下流の茨城南部、千葉北部の湖沼や河川では鰻や鯉、泥鰌を中心に多くの川魚料理屋を目にする(注:地元産の素材を必ずしも使っているわけではない)。食べることを目的にあちこちを巡ることはしないが、経験的に熊谷、館林、古河、土浦あたりはもとより、川越、大宮以北、牛久、成田と都心から30km圏を越えるとタレはキレを失い明らかに甘くなる。それもみりんや酒の甘さではなく、白糖やザラメの純粋な甘さ(CnH2nOn系の)が如実に感じられる。成田に至っては、焼きもてんでバラバラ。参道にひしめく鰻店は蒸しを入れているが、鰻街道(R6の牛久付近のほうが有名?)とまで別称が付くR464沿いや更に北の利根川沿い、香取・佐原付近では頭は落として背開きだが地焼きが珍しくない。飯にもタレがべったり掛かっていたり、『くどくはなく大味でない(≒キレがある)』という江戸前の原則から完全に逸脱してピンからキリまで、ステレオタイプな知識や経験では割り切れない複雑怪奇な様相を呈している。結果的に、行きは坂東太郎の養殖場をふ~んと眺め、Aで皮目パリッとした地焼きを甘めのタレで、白焼きを香ばしく味わって、Bで山葵たっぷり盛り蕎麦三枚で味覚をニュートラルに戻し、帰路はCで辛口タレの鰻重をゆるりと嗜むなどと、心ゆくままに選択肢が増えるのが愉しい。

試行錯誤

まずはざっと商品を改める。輸入元は都内の業者で、現在の静岡養鰻の中心、中部吉田のメーカー製のけっこうよく見掛ける山椒付きのタレが添付されていた。蒲焼本体は頭を落とした背開きの関東仕様ということで、蒸し工程が省略されていることはないだろうが、添付タレは酒やみりんを用いずに、質の悪い醤油と共に砂糖がたっぷり含まれて、カラメル色素で着色し、水飴や澱粉で煮詰め感を出していて極めてくどい。もちろん醗酵調味料による味付けやアミノ酸増強も、銭単位でコスト計算しなければならない食品業界の常道である。蒲焼本体に塗られているタレが同じモノとは限らないが、ちょっと舐めればわかる通り似たようなモノか、より粘度が高く甘いモノだ。もちろん、それ自体は「安い」「簡単」「便利」「見映えよく」「おいしい」を実現する食品科学の素晴らしい成果であるが、鰻をよく買うならばこういった各種のタレが(使わないから)どんどん溜まる。製造者によって味も大きく異なるが、成分はもっと異なるあたりが面白い。そして憂うべき部分は、この既製タレ、年を追うごとにどんどん甘くなっていくという事象である。甘いものが甘くないのは嫌だが、甘くないものが甘いのは困りものだ。

身上蒸し

冷蔵庫から出した鰻は室温になるまで放置し、まずは身を裏返し、皮目の焼き具合を見る。関東向けの場合、身側が焦げていることは有り得ないだろうが、皮は全面に薄っすら、一部にしっかり焦げが入っているくらいが妥当。長焼はそのまま40℃ほどの湯でよく洗い、身側、皮側共に塗られたタレを可能な限り洗い流す。タレを流したら表面の水分をキッチンペーパー等で拭っておく。更に、重量比で二等分した切断面から皮の厚み、脂の残り具合を目視チェックして、身肉を指で押してみて蒸し具合を推測し、追加蒸し時間を根拠もなく適当に決める。やり過ぎると櫛が抜けて鰻がデロデロ崩れるので何度かやればコツは掴めるだろう。

皮上蒸し

身と皮の間に竹櫛を打つ。皮側ぎりぎりを狙わないと身が崩れてしまう。沸騰した蒸し器に櫛打ちした鰻を皮目を上にして立て、5~10分ほど追加蒸しして脂を落とす。蒸し上がったら慎重に蒸し器から取り出すわけだが、蒸し過ぎて櫛が抜ける場合はトングを使うなど工夫する。更に焼きを加え脂が滴る程度に炙るわけだが、十分熱した網を使っても、落としきれないタレの糖分が災いして、非常にくっつきやすい上に、身は非常に柔らかくなっているので型崩れしやすい。炭火、ガスと火種は個人の事情に左右されるだろうが、最近は面倒なので余熱したオーブン皿に網を載せ、250℃、5~10分ほど、余分な脂がじゅうじゅうと音を立てて落ちるのを眺めつつ、微かに焦げ目が乗る程度に身を上にして焼いてしまうことが多い。焼き上がったらタレを軽く廻しかける。タレは濃い口醤油1に酒1を合わせ、みりん0.3ほどを加えアルコール分を軽く煮切ったもの。元のタレの糖分が染みているので甘味は極端に押さえるぐらいが丁度良い。既に一度タレを付けて焼かれているので、焼きの最中に漬け焼きはしないでも良いだろう。

焼き

本来ならば白焼きが日常的に入手できればよいのだが、在所ゆえ消費行動には甚だ困難を伴う上に、白焼きとして売られているモノは当然白焼きで食べることが前提になっているため良い鰻を使っているのだろう、掛かる手間の割に高価過ぎて手が出ない。漁協の養殖場は車で1時間ほどと遠く、扱っている鰻が地元河川を遡上するシラスを捕獲して育てたものなので、こちらも決して安くはない上に、季節や生育状態によっては扱わない時期があるという袋小路に嵌った典型のような商売の仕方で、あまり未来があるとは思えない。

ということで、肴ができたなら酒をつけよう。甘くない鰻に吟醸は似合わない。普通の純米酒を冷でというくらいが妥当だろう。どうしても米を付けるなら僅かに硬めに炊いたササニシキ、飯はあくまで白く艶があり、過度に粘らず甘味が少なく米の味がすること。タレが飯の底に染みるほど過度に掛かっているのは遠慮したい。新香も糖類が大量に添加された市販品でなく、季節の野菜を塩で揉んだ程度のモノでもよいだろう。

再生蒲焼その1

色味が濃いが、白焼きを蒸し、漬け焼きしたものでない以上これはもうどうしようもない。色は濃くとも味は大きく改善されている。皮目の焼き加減は身肉と一体化し、皮際の脂を再加熱してやることで臭みや過剰な脂っこさも抜ける。冷凍モノ特有の微妙なねちっこさを皆無にすることはできないが、箸でつーっと裂け、口の中で蕩けるという理想的な状態に近づけることは不可能ではない。身肉は中国産特有の部厚さのわりに、さっぱりと口の中でほぐれる味わいで、典型的な養殖モノの柔らかさ。身肉自体にもそれなりに鰻の味が残り、あくまでも白さを残しているといいたいところだが、若干の染み込みには目を瞑ろう。小骨は微かに感じる程度で気にするというほどではない。ようやく、さらっとした辛口ダレの蒲焼の完成である。やはり鰻はタレが主役であってはいけない。最初の半分はそのまま、後半は山椒で味の変化を愉しむ。都心大衆店レベルにも及ばないが、蒸し置きや焼き置きを平気で出してくる鰻屋と比較すればそれほど遜色がないレベルの味にはなる。週に3回も食えば当分見たくないほどの量が鰻とは思えない合理的な価格で食える。更なる改善を重ねるためにも、初夏になったら養殖場に出掛けて白焼きを手に入れてこよう。

再生蒲焼その2

2009/03/19 作成__2009/03/20 最終更新