本の感想―20

専門雑誌をめくりにいく以外、すっかり本屋に立ち寄ることもなくなった。新刊で読んでみたい本があまりにも無いというのも問題だが、出掛けたところで求めるものは置かれていないというのは本質的な問題であろう。売れないから絶版になるのに、欲しいものが絶版本ばかりとはこれ如何に。
出版+取次+書店という構造も相互に微妙な齟齬が蔓延し、いろいろな社会的システムの粉飾が剥がれ、機能不全に陥って末期的な症状を呈している様を傍観するのはなかなか興味深いものだ。

『―調査船報告― オーロラの消えぬ間に』

オーロラの消えぬ間に
光瀬龍
1984
早川書房
ISBNなし

遙かな未来、人類は星々の海を越えて拡散し、新天地を求め植民していったが、その後の混乱期に消息が途絶えた多くの星があった。再び興隆期を迎え、失われた植民星を回復すべく記録に残されたそれら辺境文明に赴いた調査員の調査記録という形にまとめられた短編10連作。光瀬としては歴史ものに傾倒していく比較的後期の作だが、本作は初期を思わせるメカニカルな宇宙SFになっている。元々、文章は非常に巧く独特の境地を築いていたが、淡々とした説明不足気味の記述と素っ気ないほどの端的な文章は、荒涼とした虚無感を否応なく引き上げているだろう。出版後25年という意味で陳腐化は避けられないが、SFとしては致命傷になりがちなテクノロジーの記述にはそれほど違和感を感じない。

人類が絶滅した後も存在意義を賭けて戦い続ける人造生物や主を失ったコンピュータ同士の覇権争い、気候変動がもたらした黴毒が蔓延し狂気によって絶滅寸前の基地、訪問者の記憶を再構成し望みを具現化する装置が作動しているだけの星、辺境に赴いた調査員が見た文明(あるいはその痕跡)はことごとく破滅的な様相を呈し、救いようのない悲劇的なベクトルと滅亡の予感に満ちていた。なぜ、人はこういう道を歩んでしまうのか? というやりきれない終焉に向かい続ける諦めにも似た虚無感が延々と提示され続けるなかに、やがて、紛れ込むように主人公である女調査員自身に設定された秘密が少しずつ明らかにされていく。ラストで一応の合理的解決が図られるわけだが、ここでも相変わらずの光瀬節。無窮の宇宙に放擲するような寄る辺の無さと茫漠とした絶望感は決して収束しない輪廻を暗示するようだ。

『スカイ・クロラ』

Sky Crawlers The Sky Crawlers
森博嗣
2002
中央公論新社
ISBN4-12-204428-6

90年代とはほぼ別人(こちらが本性?)というまでに転進を計った森博嗣が、もう一儲けと受けそうな対象を見据え、世のゆとり化に合わせ更なる対象拡大を狙い、お子供様向けに書き下ろしたファンタジィのようなもの。ここでいう“森博嗣”とは森博嗣個人の人格+出版社の意志という記号である。SFとするにはちょっと苦しい。良く言えば抒情ライトノベル、読んだことはないがケータイ小説というものに近いのかもしれない。無意味に羅列される若年層嗜好をくすぐる文章や無機的で“詩的”な描写など、そういう意味では多分良く出来ているし今風に成功しているのだろう。原作は2002年とずいぶん昔の出版だが、何故か最近映像化されたらしく、それなりに一般界でも名前を目にする機会が多くなってきた。名前も含めてキャラ・デザインあたりも当初から狙っていたかな?(笑)頭の良い人だからね。

ちなみに連作のシリーズものらしいが、“青臭い中年を偽装した子供”の内的独白に感情移入ができないと読み進めるのは辛そうだ。飲酒喫煙に(描写は無いが)セックスもOKな“子供”である主人公がショウとしての戦争を戦って生と死を自問自答しちゃうという設定あたりで正直、逃げ腰になっている。思い入れたっぷりに描かれる“飛行機”に関しても箱庭趣味的で物足りない。未来設定に懐古趣味的な制限とテクノロジーを持ち込むのもツマラナイ。「散香」のモデルは旧海軍の試作機「震電」なのだろうが、「散香」は「散華」(さんげ:当時の末期的信仰:花と散れの意)をもじったお得意の意味無しジョークか。

まあ、神林長平あたりが既に書いちゃっているものとは敢えて競合しない方向に逃げつつ、自らの懐古趣味を満足させたということか。300km先からマッハ6(1990.08m/s)で突進してくるラムジェット自立索敵型誘導弾がパイロットにもたらすものは瞬間的な無意識の死、運良くば警戒レーダーの警報を耳にするぐらいで、自己保存最優先の高機動権限を機体に与えておくぐらいしか回避できないのが現実の世の中で、戦争の戦術部分に人間が介在する意味を追求すること自体の無意味さには既に結論が出ているはずだ。残念ながら、大部を占める空戦シーンについても、本質的に無意味なショウを敢えて詳述する意味はないわけで、いっそのこと闘牛でもやらせた方がよかったように思う。ナッツと胡椒が薫る濃厚な赤葡萄酒で串刺し肉を齧りながら。

最後に、いちばん気になったというか鬱陶しく違和感を感じたのはタバコ。コーヒーはまだしも、事あるたび(或いは、ないたび)に“ステータスの如く”タバコを取り出して、公の場所(航空燃料を扱うような場ですら)で堂々とプカプカしてる主人公らは純粋に滑稽で、失笑を禁じ得ない。6年前の執筆ということは割り引いても、なんでここまで意固地になるのかね? タバコ描写がなければ10%ほど文章が減り、無意味で不愉快な冗長さも減ると思うのだが。


2008/09/01 作成