葉月記+長月記-(2007/09/11-11/09)

1;諸々

文章を書くことに左脳が拒否反応を示している。サボりだすと止まらない。面倒だから、もうこのまま止めてしまおうか? と思うこともある。仕事に追いまくられて忙しかったので今月はあまり内容はない。

川に洗濯にいったらエイがいた。体長1mほどのアカエイ。四角い部分は50cm角といったところか。まだ子供。青潮の酸欠水の中を悠々と沖へ出て行った。

嬰

Fleetwood Macの70年代二期ものでマイナー時代の持っていなかったものを数枚。Deep Purpleの5作目くらい、ライノ・リマスターの「東京女」をようやく入手。これで昔懐かしDPの初期~全盛期ものが一通り揃った。ラフマニノフの宗教合唱曲集を二つほど。秋になって購入したDVDは封も切っていない。観る暇なし。

■ここに至って心を去来する由無しごと

在庫一掃キャンペーンもたけなわ

馬鹿殿を煽って勢い勇んで刀を抜かせたはいいが、収める鞘がどこかへ逝っちまい、止めときゃいいのにぶんぶん振り回すもんだから、そろそろ死人が出そう(笑)。売れ残りの山を抱えた大手DVにとっては渡りに舟だろうが、足元から崩れていくのは古今東西よくあるパターン。日雇いや末端は先月くらいから閑古鳥が鳴いているが、そろそろ各製作工場や材料メーカーにも飛び火の勢い。来月には小さいところから資金ショートや不渡りもでるだろう。冬は寒い(笑)。

目を皿のようにして粗を探し、瑣末な瑕疵に鬼の首を取ったように小躍りして、ぎちぎちと締め上げるのも結構だが、全てはコストアップとして自らに跳ね返ってくることを覚悟しておくべきだろう。おまけに締め付ける部分が完全に的外れだから、本来の目的にはまったく寄与しないというのはよくあるいつもの話。本来必要のないラベルをでっち上げ、そのラベルに真実と信仰を求め、なんら生産に寄与しないラベル作りばかりがもてはやされて大手を振って歩いている姿は、まるでかつてのノーメンクラトゥーラ(номенклату'ра)の再来のようだ。もちろん、それもまた一興。

嬰と海月

正直、もうどうでもいいんだ。馬鹿は死んでも直らないだろうが、私(たち)はモノを作ることができる。造るでも創るでもいいけれど、何をどう作るかから、その手法を精知し、より良いものを作り上げるための構成力と技術的手段をずいぶんと効率悪く苦しみながら培ってきた。担う部分は全体の一部でしかないが、人的ネットワークや協力関係を通じて最終的な形を、コストの制約はあるにせよ、作りたいものを作りたいように残すことができる。それで十分ではないか。出来合いのモノを買うしかない人間のスペック自慢に付き合うのも、金で言うことを効かせるだけの立場の人間に振り回されるのも正直飽きた。プロと素人の区別がつかないお子ちゃま社会を相手にするのは時間が勿体無い。そろそろ隠居を視野に入れて、余生を面白可笑しく過ごせるように布石を打っておくか(笑)。

真贋の狭間

裏が取れない情報を鵜呑みにするのは傍から見てかなり滑稽であることは否めない。一方で、準耐火ボードは個人で検査するわけにもいかないし、庭で燃やして試したりしたらすぐ通報されるから困ると思うだろうが、この手のモノって普通に売られ、仕入れるものには問題が発生しにくいという仕組みを覚えておくとよいだろう(これ、豆知識な)。平たく言えば北海道の某食肉業者と同じ。大口取引先から叩かれまくってヒーヒー言いながらコストダウンして無理やりでっち上げなければならなかった製品を使うのは、特定の限られた販売業者だけだという事実が答えになるだろう。もちろん検査は某省の外郭団体が行っておるわけだが、mm…nyamunya(笑)ということで許せ。社会の仕組を知ることは楽しいが底無しの闇には近づかないのも大人の素養だ。

孔の向こう

不味いものを掴まされた人間が自らの味覚をもってして、“美味しいのと不味いので値段が同じなのは許せん”と言ったわけでもない赤福で、陰でこっそり面白いと思ったのはやはり製品の原材料表示だろう。平成12年以降は概ね重量比に基づいて表示することが義務付けられたが、赤福は本来「砂糖、小豆、もち米」とすべきところを逆に「もち米、小豆、砂糖」としていたあたりに現代に生きる人間の機微が感じられて可愛いらしい。赤福も「砂糖」だけに拘らず、「甘味料、多糖類、ステビア」云々をうまく組み合わせて重量比を見掛け上減らせば「もち米」や「小豆」を前にもってこられたのになぁ。東南アジアなどでは順番と同時に成分比のパーセンテージも表示が義務付けられているが、それを「野暮だねぇ」と言える矜持は文献の中にしかないと同時に、本質に何ら関わりのないルールだけを盲目的に信仰する気持ち悪さも蔓延してるのだろう。

どこかの料亭のボッタクリ蕎麦は「小麦、蕎麦粉」の順番を入れ替えていたらしいが、これは意外と簡単にわかるので危険極まりない愚行だ。インチキ蕎麦の蕎麦湯は“すいとん”なのだな。“すいとん”なんて食ったことないが想像はつく。うちの爺ちゃんは見るのも嫌だと語っていたが、どう見ても蕎麦掻のほうがおいしそうだ。小麦文化圏では“小麦湯”のほうが受けるというならば敢えて否定するものではない(笑)。

■名物に旨いもの無し

ラベルに刻印された日付より自分の五感を信じればよい。表示されたブランドより自らの味覚と食感に従えばよい。産地に拘らなくとも、味に拘れば自ずと選ぶものは決まる。自明。それ以上の何が必要だというのか。少なくとも賞味期限(限界耐力法)に関しては短めに設定すること(不安をあげつらうこと)で商品の回転を良くしようとする思惑しか見えない。挙句の果てに中途半端な知識を振りかざして知っている範囲の安全と安心を求めるんじゃ広告や宣伝に長けた資本の思う壺。もはや自らの世界を狭めているだけというあたりが陳腐にして面白味の欠片もない茶番だ。もちろん、本来の味(質)とは何の関係もない人件費や広告費に投資したいというのであればそれはそれでよい。このあたりの構造はCDなんぞともとても似ている。広告をしない優れた音楽はまったく売れないが、局やダイリテンに旨いもの食わせ、女を抱かせれば中身に関係なく売れる。国産CDと輸入盤の法外な価格差はそのまま広告宣伝費+交際費にあたるというからくりは、実際購買意欲を冷やすことにはなんら繋がらないのだろう(笑)。

名物にうまいもの無し。恥知らずのでっち上げ名物ではなく、本場で食べるいわゆる本物の名物というやつ。逆説的に云ってしまえば、その土地でしか通用しないものを名物というのだろう。名物も特産品も何一つない土地柄と風土で育った人間がいうのだから間違いはない。国内外を問わず特定の地域や伝統に思い入れもしがらみもないから遠慮もない。“おもてなし”を否定するつもりはないが、今や“その土地のもの”なんていうものがないことは市場を見ればわかる。素材の善し悪しがあったとしても、調理法や調味にも差があるから、その両者において飛び抜けたものはいずれ普遍化して名物の範疇を越えていく。それがたぶん本来の料理というものなのだと考えている。似たようなコピーが氾濫する中で、逆説的に本物のおいしさを主張する手法は有効だが、自分が作るものの中に、内に内に傾倒埋没していくよりも外世界への意識の拡散と新しい評価手法の獲得が有効だろう。もちろん、飲食店や料理屋なんていうものは国内海外を問わず、他所の土地にラベルやブランドを背負ってチェーン展開した時点で、商売としては成功しても中身としては終わっているはずだ。

無花果のピッツァ

最近、何を食ってもおいしくないのだなぁ。店で食っても自分で作っても、かつて感じた繊細な味わいを愉しむことができなくなっている。倦怠期かな。どうでもいいような、ほんの僅かな瑕疵が気になってしまう。感覚が摩滅したのかと思って敢えて外したものを食べるとやっぱり耐え難いから味覚が変わったわけではない。一方で、そのへんの弁当屋で買ってきたのであろう唐揚げ弁当を貰って、根切り底のまだマッサラな冷え切ったベースCONに座り込んで、ケツが冷たいよ、こら! と思いながらも真っ青な空を眺めつつ食った、お世辞にも良質とはいえない輸入鶏肉はどこにでもある安直な味だが揚げ立てで温度はまぁまぁ。う~ん、雰囲気で味覚が変わるほど稚拙ではないつもりだが、塩分が足りないのだろうか? 載せるものがなくて無理やり捻り出したというよりはただの思い付き、無花果のピッツァ。一見彩りは魅せるが味は呆けている。無花果がゴーダに負けてしまう。無花果には強力な味付けが必須なように、自分の感覚にも何か鮮烈な一押しが必要な気がしている。

■国賊三題

■中国産鰻

さあて。そろそろ鰻の季節(注:10月ごろの話)。養殖といえども、鰻は秋から冬にかけてがいちばんおいしいといわれるが、11月になると国産品は数がなくなると同時に品質が落ちる。品質が落ちなくともスーパーなんぞの小売店では無駄に高いから買えない。そこで今や国賊扱いの中国産輸入品。30cmを軽く超える、細長く身がそっくり返っていない、比較的シンプルなジャポニカ種の解凍鰻長焼。個人的には皮目を上にして売って欲しいと思う。蒸しと炭火焼きが自慢らしく、これ見よがしに堂々と書かれた「中国産」のラベルが眩しい。炭は基本的に中国産だからおかしくはないが、“蒸し”と“焼き”というインチキのしどころにして蒲焼の本質を突かれると、その手のキャッチフレーズに期待したことはなくともちょっと心を動かされる。ラップを剥がし、焦げ目が付く程度に皮側がしっかり焼けていることを確認したら、指先で膨らんだ部分の身肉を押してみて全体の焼け具合を判断しよう。きちんと焼けているものは解凍とはいえけっこう柔らかい。

蒲焼

中央部で二分割し、熱したフライパンで焦がさないように軽く皮側を焼く。焦げ付く寸前に鰻が浸る程度の日本酒を廻し入れ、蓋をして蒸し焼きにする。酒は普通に飲める程度のものがよい。蒸している間にタレを別鍋にとり、醤油、酒、味醂であっさり辛目に調整しながら煮立てる。タレには頭や骨の出汁が含まれているので自分で作るのは難しいが、添付のタレは概ね甘すぎ濃厚で素材を暈すので調整が必須だ。タレの袋に表示されているメーカー所在地で判断可能。煮立ったら半量を蒸し焼き中のフライパンに投入し、煮詰め過ぎないうちに火を止める。蓋をしたまま蒸らしておく。その間に飯を丼に盛り、椀なども用意してしまう。串打ちしてあれば直火で軽く炙ると香ばしさが増すが、長焼ならば仕方があるまい。最後に分解しないようにスプーン二刀流やフライ返しで鰻を掬い上げ、飯に載せ、熱いタレをかける。臭みが無ければ山椒はいらない。飯は炊きたて、鰻は焼きたてじゃぁないが、まぁ、蒸したて。炙っていないから見た目はちょっとだらんとしてしまうが、臭みや不自然な脂がなく、皮も薄く箸で簡単に身をちぎることができる。もちろん一人前は鰻一匹が最低限だろう。需要が落ちることで、こういった上質な鰻が安価に出回って大変喜ばしい。下手な鰻屋で食うよりも、無駄に高価でちっともおいしくない国産養殖品よりも遥かにふわふわに蕩ける鰻丼が食える。

中国へ進出している大手商社や食品、水産会社などの日本企業と、旧来の国内の養殖業者との国内対立の延長というヒステリックな構図は単純すぎて興醒めだ。ちなみに別に鰻が売れなくたって大手は困らない。元手が掛かっているわけじゃないからね(爆笑)。 初めて鰻を食ったのは、遠い昔、親父に連れられて行った神田の「登亭」だったが、世の中にこんなにうまい(店から歩道に漂う煙と匂いも凄かったな)ものがあるのか! と今でも憶えているくらい感動した。大人になって「石ばし」で鰻を食ったときは目から鱗が落ちた。でも、最近は自分なりに活きと冷凍の区別がつかなくなっていて、ちょっと凹んでいる。う~む。

■廉価ラーメン・チェーン

日曜の中休み時などどこも開いておらず、半分面白がって入ってみる埼玉北部出自のラーメン店。ラーメンは年に5回ほど外食していると思うが、セロリ麺(ラーメンじゃないか)以来なかなかあたりを引くことができない。福島南部出自チェーンではあえなく玉砕しているので今回は店を変えてみた。うっかり批判しようものなら非国民扱いをされかねないが、経験的にこの手の店ではメニューの選択の余地がほとんどない。スープが澄んでいて、いちばん油っこくなさそうでシンプルな中華そばと半炒飯、生ビール+摘みの盛り合わせを頼んでみた。中ジョッキで登場する生ビールは堂々と「ビール」という表示だが、微妙に薄いのをさっぱりというべきか○○というべきかは敢えて問わない。サーバが悪いというよりは安いからなぁ。

出てきたラーメンは表層全面が1.5mm程度の脂に覆われていた。出汁は鶏がら主体に僅かに魚粉? まぁ、値段なりの出汁。その上にラード? だよなぁ? この脂。トッピングは薄い叉焼、シナチク、刻み葱に小さな味付け海苔が一枚。見事な厚み(というか薄み)に裁断され、この断面になる叉焼はその元の姿を想像しにくいぞ(笑)。そして、そのすべてが脂に覆われて、てらてらと不気味な粘り気を放っているのであった。うう。目線を水平にして油膜の厚さをチェックする。ぎりぎりの線だがかなりつらい。表面にオイルフェンスを張ってその開口から深部にある麺を取り出せないか? シートパイルを打ち込んで内側の上澄み部分をポンプ排水できないか?

現実には簡単にできることが、この器というミニチュア世界では甚だ困難である。食べる順番を規定されるのは好まないが、先に摘みを食い切って空いた器に蓮華ですくって表層脂を捨てた。タンメンにしておけばよかったと後悔しきり。ちなみに表層脂が3mmを越えたものをアルコールと共に食うと、100%の確率でロクでもない結果になるので避けている。

一口食って、あまりに率直な旨味成分のえぐさに箸を取り落とす。御免、床まで落ちた。箸がテーブルに置かれている店はよいが、ない場合は目ざといお姉さんが持って来てくれたりして大変申し訳ない。我慢して5口食べると慣れる。これが化学調味料(今は旨味調味料と表示するのが慣わし)の威力。味覚の本質を惑わす効能は感動的ですらある。おまけのような半炒飯を一口。おお。これも凄い。もう舌は慣れてしまって旨味を堪能しているくらいだが、味蕾を覆いつくすようにプラスチックのような後に引く嫌味が残るのが玉に瑕。それなのに、舌が慣れてしまうと量をどんどん増やしていかないと旨味を感じれなくなるあたりが商品としての旨味と持ち味だな。昨今の旨味を極度に偏重したモノの味というものはこうして作り上げられてきたのだろう。で、麺がどうとかスープがこうとかに関しては特に興味がない。普通であればよい。いや、まぁ、隠居して年金生活者になったとき、徒歩圏でお小遣いで昼間呑める店を探してるだけ。

■売国赤貧炒飯

ササニシキへの繋ぎで買った地元コシヒカリ新米で非国民炒飯を作る。発煙するまで熱した北京鍋に胡麻油+ラード混合を適宜。軽く揺すり油がさらりと流れたら白色レグホンの溶き卵2個を投入。丸く半生で浮いたらすかさず温かい飯を投入し中国製鉄製お玉で切るように掻き混ぜる。みじん切りの中国産大蒜、中国産鶏がらスープ少量を加え、軽くいなしたら刻んだ中国産搾菜、青葱、中国産枸杞(クコ)の実、中国産松の実、中国産五香粉、最後に塩、インド産胡椒を加え鍋を振る。胡麻油と香り付けに醤油を少量鍋肌に流し、押し気味2分30秒で完了。

炒飯

見栄えは悪いがそれなりに水分は飛んでいる。器に盛り付け、葱のスープとともにうまいうまいとガシガシ食う。12A天然ガスはインドネシア産、電気は福島浜通り産だがウランはオーストラリアかカナダ産だろう。もちろんウラン濃縮の遠心分離機も電気で稼動する。米と葱は国産だが肥料は違うだろう。胡麻油は角屋(かどや製油)純正だが原料は国産のわけがない。ラードは豚肉の脂身を削ぎ落としたものだが国産豚といえども飼料は北米産か中国産だろう。醤油は正金の熟成1年もので国産丸大豆だが製造に使われる塩は天日製塩とあるからオーストラリアかメキシコ。ちなみに味付けの塩は国産の海水(笑)を濃縮膜で漉して煮詰めたしっとり風、鳴門塩業株式会社謹製の純国産海塩である。100円でしか買ったことないけど。

■よろず二題

◇鶏肉

生肉のように見えるが、「ハーブ鶏」などという輸入プレミア・ブロイラーの加工食品がいつの間にか市場を席巻している。それを真似た国産品が出回るに至ってはもう何をかいわんや。ブロイラーにハーブを食わせれば「ハーブ鶏」って安直過ぎないか? 「ハーブ」という言葉のイメージに寄り掛かっているのだろうが、「ハーブ」はHerbre(ウルブル)なんだから「草」以外の意味はない。もちろん国産若鶏などといっても(いわゆる地鶏以外。地鶏といっても純血種はほとんどいない)流通量の90%以上はブロイラーだ。持ち込まれたのは戦後。ちなみにブロイラーの種は概ね2系統しかないので国産とか外国産に差異を見つけようとしても本質的な意味はない。というか元を辿れば行き着くところは同じ。

ブロイラーの原鶏(ES/エリートストック/Elite Stock)は寡占化が進みイギリスのロス・ブリーダーズ社(現エビアジェン社)と米コッブバントレス社のほぼ独占で、最高度のバイオテクノロジーで遺伝子設計されたESはもちろん門外不出。傭兵あがりの武装警備員が常駐する極めて警戒厳重な区画で最高級の待遇(環境制御育舎)で飼育されている。もちろんアクセス・セキュリティも極めて厳重で映像すら公開されていないはず。見ることすらできないなんて…(おいおい、鳥の形してるのか?)。

ブロイラーは生まれて2ヶ月で成鳥になるように改造された食肉用生物(製品になるのはESから5代目)で、ESが生んだ子供(2代目)までは門外不出。その子供(孫)が世界の種鶏業者に売却される。種鶏業者は数少ないその3代目から4代目を鼠算的に作り、その4代目が生んだヒナが全国の養鶏業者に分配されるわけだ。この5代目になると生殖機能はしっかりと機能しなくなるよう設計されているので、養鶏業者は毎月、種鶏業者からヒナを買わなければならないというあたりがピラミッド構造の骨格である。ロスの雄とエヴィアジェンの雌を掛け合わせるといった組み合わせの方法が種鶏業者の腕の見せどころだが、平たく言えばそこここで若鶏などというネーミングで売られている鶏肉は英米2系統の全て同じ親から生まれた兄弟ということになる。

同様に、採卵鶏(レイヤー:Layer)はドイツ・ローマン社、オランダ・ヘンドリックPB社、フランス・イサ社の三育種会社が世界シェアを独占している。当たり前だが、普通の雌鶏(いわゆる純血種の交配種で地鶏といわれる独自種)は年に十数個の卵しか産まないが、白色レグホンに代表されるこの生物は年に数百個の卵を産むように設計されている。地鶏の卵10個パックを1000円で売っても餌代も出ない。現実的に採卵を事業にするならばレイヤー導入は必須であることは自明だろう。

これらの商品化された生物は、ともに代が重なると最初の遺伝形質が失われ、普通の鶏、つまり肉が固く成長が遅く、卵をあまり産まない役立たずに戻ってしまう。もちろんそんな鶏には産業的価値は欠片もないから原鶏会社はより優れた品種が開発されない限り、永遠に繁栄を続けるという仕組は農作物の種や養殖魚の卵と同じ構図を成しているわけだ。このあたりも鳥インフルエンザやSARSの発生、各国の鶏種飼育状況や生産状態を見ると、そこに働く意志とパワーを想像することができる。たぶん知らないほうが良いことばかりだろう。技術の進歩と人類の繁栄に乾杯。

別に包丁で切ってみなくとも、生肉見て脂の付き方や色合いを見れば大体出自はわかるものだが、地鶏の出汁(普通に売ってる)にブロイラーを漬け込んで味付けで誤魔化されたら区別はつかないだろうな。美人を美人に撮るのは誰にでもできる。同じように、良い素材を使った料理は普通はおいしいものだ。もちろんそれでは金儲けにならないからチンケな素材をおいしく誂えることが料理人の腕というもの。おいしい素材を何の工夫もなくおいしく食べるだけなら動物にだってできる。

◇醤油

関東平野のど真ん中にある亀甲満の牙城に降り立つと電車のドアが開いた途端、醤油の匂いが雪崩れ込む。昔はモロミの匂いがかなりきつかったが最近は大きく改善されて不快というほどではない。駅の周りには商店も人家もない。醤油工場の燻し銀のタンク、横長に広がった灰褐色の建屋だけが目に入る。

醤油

このところ、関東御三家+東丸に飽き足らず各地の醤油を積極的に試している。とはいってもグルメじゃないので、そのメーカーが普通に製造して普通に出荷したものを普通の値段(丸大豆で298円)で入手するように努めている。香川の亀菱、三重のヤマモリ、愛知イチビキ、サンビシときて野田キノエネから辿り着いたのが群馬の正田醤油。この濃口はなかなか香りよく、かつ軽やかな味わいが融通が利く。このところ常備している。

熟成1年や○○仕込みに惹かれることはあるが、せいぜい500円/l程度が上限だったはずなのだが、たまたま手に入れた正金醤油の天然醸造こいくちにはぞっこん惚れ込んだ。限がないから調味料にはあまり拘らないように勤めていたが、これは値段こそ多少高いがその価値はある。深い透き通るようなコクとでも云おうか。香りも際立つ割には上品で邪魔にならない。控えめで裏方という調味料の分際は忠実に守りながらも、人を花やかで豊かな気分にさせる底力を秘めている。名前が似ているからマルキン忠勇(元は丸金)の親戚かと思っていたら、やっと探し出したWebページもなんだか商売っ気のないやっつけで誰かに作って貰ったような作りだし、会社概要の本社工場を見たらちょっと泣けた。

■魚三種

◇ワカシ

わかし

7月にワカシを食って、8月にはイナダを捌き、秋になってようやくワラサがお目見えした。と思ったらまたワカシが捨値100円だったので30cmほどのものを2匹。隣に並んでいる秋刀魚は売れているのにこちらはさっぱり。誰も見向きもしない。ブルーグレーの魚体にグリーンのラインが美しい。頭は落とさずエラと腸だけ抜いて冷蔵。ワカシぐらいだと一晩寝かしたほうが旨味が回る。身は刺身、中骨、頭は潮汁に。以前、1mほどの鰤を買って、食いきるのにありとあらゆる手法を動員しても一月ほどかかり、さすがにうんざりこいた記憶があるので最近はせいぜいイナダでOK。

◇カマス

ときおり理解不能な値付けがされている魚屋でカマスを発見。“かます”という動詞の語源になった30cmを越える赤カマス。あるいは本カマス。干物にするのが普通らしいが、半分刺身、残りは翌日塩を振って焼き物。白身の刺身は皮を炙ったものを外で食べることができるが、やはり皮を引いて身だけを刺身にしたほうがおいしい。旬は初夏らしいが、秋たけなわのものは水っぽくなくてとてもおいしい。

カマス

◇スミイカ

コウイカとも云う。舟形の骨が頭部に埋もれている。解体が楽で皮が剥きやすいので見かけたら入手する。子供の一貫付けは江戸前鮨の定番中の定番。シンイカという名で初秋に供される。小さいほうが高い。墨袋を破くと名前の通り始末に終えないので慎重に。パック詰め前に洗浄しているのだろうが、真っ黒な墨に浸かって市場に入荷するからスミイカと呼んだらしい。味はマッタリとした濃い旨味があって食感ともに非常に良い。キッチンペーパーに包んで二日ほど置いた刺身がいちばん。余ったものをマリネやパスタに使うがちょっと勿体無い。

甲イカ

■場末巡礼

◇蕎麦屋

北西に50kmほど。場末感が漂う利根川流域。辺りを見回しても何もない。引戸の正面、上り框のところに「ご飯はありません」「うどんありません」という表示があって、予め誤解を回避する努力がなされている。休日の昼過ぎだが八分ほどの入り。蕎麦がなくなり次第終了というスタンスの店だがエラそうな親父の姿はなく、とても庶民的な雰囲気、あるいは田舎。摘み以外のメニューはさほど多くない。穴子天を肴にもりを食ってみたが、穴子は肥え過ぎていない由緒正しい背開きの一匹もので淡白さと香ばしさが程よく混じったもの。一本ものだがこれ見よがしにそのまま出すような悪趣味とは無縁で、きちんと分割された盛り付け。皮目が固いくらいきっちりと揚げられているものの、身はほくほくという技に感心した。衣もベーキングパウダーやコーンスターチに走らない本来の天麩羅。揚げ油の胡麻油もしつこくないが、しっかりとした主張があって好ましい。本ワサ、葱だけの薬味も今風の媚びた誤魔化しがなくて潔い。蕎麦は更科で殊更硬くはないが腰は強め、細目だが唇が切れそうなほど非常に清涼で切れが良かった。時期的に新蕎麦直前の最悪の時期(10月下旬)だが、思いの他満足した。北海道産でも入れていたのだろうか? つゆは鰹を効かすというよりは醤油のさっぱりとしたコクに酒、味醂の仄かな甘みとまろやかさが浮かび上がるもの。土地柄、醤油の質でここまで変わるのか? と思うぐらい自然な旨味。値段もグルメとは無縁な安さ。

◇天麩羅屋

隣町。いわゆる高級天麩羅店ではなくて、持ち帰りもやっている昔風、町の天麩羅屋。胡麻油主体のしっかりした揚げ具合のせいか比較的年配者の利用が多いようだ。ガラス張りの厨房。二つのフライヤーで職人二人(爺さんと親父かな)が在庫を見ながら揚げていく家内制手工業。海老、穴子、白ギス、鰯、鯵、メゴチあたりに各種精進揚げ、かき揚げを加えると常時20種くらいの種がある。ハゼがないのが惜しまれるが季節ものか。一つ50円~100円程度。少ないながらも席があるので店内でも食べれる。種をたっぷりと専用のつゆにくぐらせて、丼に載せて食べる天丼の基本がしっかりと守られている。カリカリ・サクサクとしっとり・ほんのりの並列が天丼の醍醐味である。盛り付ける種は自由に選べるのが嬉しいし、おまけに極めて安い。ついでに、給仕担当の娘は目が大きくてとっても美人だ。種に合った揚げ方に非常に安定感があって、いつでも同じ味なのも好感である。似たような業態の昔風、町のおでん屋はいつのまにか廃業してしまったが、末永く続いて欲しいものだ。

■今月の鮨ネタ

まだ小粒だが牡蠣が順調にスタート。鮑は終わりだが代わって赤貝、青柳、小柱、ツブ貝あたりが秋になって復活。秋にしか食べれないイクラの醤油漬けもお目見え。いわゆる魚卵にそれほど思い入れはないが、年に一度、秋口のイクラだけはおいしいと思う。秋刀魚はそろそろ終わり。分厚い身肉と鮮やかな銀は爛熟した芳醇さ。戻り鰹はどうやら戻ってこなかったらしく、市場でもえらい高値が付いていると親父は嘆いた。だからといって、鰹なんぞ高く出すわけにはいかない! というのが店の売り。であり、私の買い。マッタリとした食感は独特だが香味は木の芽時が勝ると思う。青葱、生姜の彩りが深い赤に冴える。煮切りだけでさっぱりと。

冬の先取りとしては、鱈昆布締め、鱈白子にお待ちかね、遠州灘の虎河豚がお目見え。今は沼津あたりで揚げてそのまま東名で直送されるようになった。虎河豚も“ふぐ”という名の紛い物の山にすっかり埋もれてしまったが、身肉のしこり加減と清々しいまでの香ばしさ、繊細な透明感が堪らない。ワラサは鰤になって順調に揚がっている模様。そろそろ平目も季節だろう。冬はネタが多くて目が惑う。

仙崎(山口長門の)の目鯛がおいしい。太平洋でも獲れるが日本海産には敵わないらしい。白身でありながらマッタリとした旨味としっとりとした脂のバランスは極上。真鯛は桜の季節だけでよいが、あいなめ、ハタ、赤ムツあたりの柔らかで緻密な身肉の舌触りには個人的に目がない。

頭のとれた解凍海老は食わないよと言ったら、鮨屋のあんちゃんはうちは死んだ海老蝦蛄は買わないよと応えたので、でも、泳いでいる海老のほうがうまいよと言ったら生涯海老を食わしてもらえなくなりました(笑)。もう~、頑固なんだから。


2007/11/23 作成__2007/11/28 最終更新