文月記 -(2007/08/13-2007/09/10)

1;諸々

久々の台風の後はまた夏になってしまった。そのままずっと、何? この蒸し暑さ。水面にぎらぎらと反射する残暑の光にうんざりしてカーテンを閉める。……と、今月も遅れの理由にしようと目論んでいたら、今日になって曇りがちの空に北東の風が吹き始めた。時間とともに、湿度は高いが気温はぐんぐん下がり始めた。オトト…涼しい。と思っていると夜になっていきなり蒸したり、わけわからん。

数年前の「年次改革要望書」通り、郵貯もいよいよ来月に民営化が迫ったのでそろそろきれいさっぱり縁を切るか。簡保も合わせてGoldman-Saxの軍門に下り某国債の運用機関に成り下がるというのはとうの昔に策定された既定の事実だったのだろう。郵便事業も多くの人が望んだように早速手数料の値上げやサービスの縮小、地域格差の拡大が目白押し。あまりにも予想通りの展開に興趣が削がれるどころか鼻白むとはこのことか。

夕焼け大焼け

ほんの僅か円高基調に振れて触手が動く。中古以外手を出していなかったCDは懐かしのメロディを若干買い直し。DVDは祝『ヒッチャー』再発。不思議なロングショットが多用される絵作りとアメリカ映画とは思えない無音のセンス、中身のギャップがアンビヴァレンツでぞっこん。音楽もいい。ヴィム・ヴェンダースの『リスボン物語』、懐かしのモノクロは『カサブランカ』と『嵐が丘』。古のSF作家、海野十三の従軍記『赤道南下』、杉浦日向子の『一日江戸人』。金木犀の季節にはまだ早いが、大昔の漫画、「幽霊になってしまった男の話をしようと思う」で始る内田善美『星の時計のLiddell』を読み返していたらまた嵌ってしまった。元になったネタ本の存在や、思想的バックボーンを理解して読み直すと感慨はいっそう深まる仕掛けになっているのだろう。表現を超えてしまった存在をどう表現すべきか極めて困難であるがそのうちまとめてみたい。女のくせに(いや、女だからこそか)女が描けない人で、男として初めて魅力的に思ったキャラは『草迷宮・草空間』の“あけみちゃん”だった。それが断筆になるのだが。

■ここに至って心を去来する由無しごと

一家言なんていうものは元々持ち得ないが、書いてある字は読まなきゃ気が済まない典型的な貧乏性である。茫漠と期限もあてもなく無意味な文字、例えばポストに入っていたどうでもいいチラシ、自動車保険の約款、薬の能書き、食品の成分表示、カタログに載っている行ったことも見たこともない土地のショールームの住所なんぞに見入って無意味から意味を抽出しようとし、字面の面白さを眺め、表意文字に込められた喪われた過去の意志に思いを馳せるのも楽しい。

冷蔵庫の中だというのに寝かしているピザ生地がむくむくと肥え太りやがってラップからはみ出して困る。はみ出した部分は当然乾燥して固くなるから内側に折り込んで再びラップを巻き付けてやるのだが、今見たらまたパンパンに膨れている。イーストが元気すぎるぞ、こら。

近所のパン屋の評価がこのところ逆転しつつある。以前油っこく甘みが勝っていたパン屋が硬めの香ばしいパンを焼くようになった。以前贔屓にしていた店は軟化の一途を辿っている。ちょっと遠いが自然酵母が売りだった店は相変わらず繁盛しているようだが、堕ちたもので安直な媚が醜い。世に迎合するのもけっこうだが、パン職人は自分の味を憶えていないのか? ということで昨今はいちばん近いパン屋でカチカチのフランスパンと大量のパンの耳、一袋20円を買ってきて、かりかりに焼いたパンにEXVオリーブ油と胡椒、岩塩を混ぜたものをスプーンで垂らしながら、あるいはパンの耳を赤葡萄酒に浸しながら食うのが日常になってしまった。

夕焼け小焼け

■よろず三題

◇ふさおとめ
盆明けにあっさりと。来た来たぁ。おにぎりを手にはぐはぐするふさこちゃんのイラストが一部で著名な「ふさおとめ」新米が登場。芸人知事の宣伝に引っ掛かった老人が持て余した白濁三等米に割れ米だらけの某県産極悪品質2007年コシヒカリ新米(作柄指数30って、言っちゃ悪いが家畜用だろ。売物じゃないだろ。二度と買うなと厳命しておいた)はとても白米では食う気にならず、すべてピラフに転用せざるを得なかったが、さすが「ふさおとめ」。全然高いものではないが、透明で艶のある粒立ちのよさは一目見ればわかる。粒の大きさも完璧に揃っている。もちろん、普通に炊いてさすが新米の美味である。9月になれば南関東産「コシヒカリ」も出回るが、月末~10月の宮城「ササニシキ」新米を睨んで嬉しいことに極めて調達の巾が広がる時期である。今年の関東米はかなり良さそう。東北も出来は上々と聞く。

ふさこちゃん

◇また、だまされたぁ
たぶん、ヨロシクないだろうと思いつつも、1.8lで1000円ちょっとについ手を出してみた某大手日本製フルボディの赤葡萄酒。一口飲んで噴いた。ベースはオーストラリアかどこかの粗悪な安物だろう。フルボディに似せるためにあろうことか、葡萄ジュース!を加えて日本人好みの味わいに調整したと細かい字で書かれていた。そんなものが葡萄酒としてまかり通る規格制度が存在すること自体神経を疑うが、これは葡萄酒版の三増酒に他ならないということなのだろう。不自然な甘み、安っぽいアルコールの濃さ、くどく人工臭のする如何にも作りものの風味と、もはやほとんど合成酒に近いもの。葡萄ジュース混ざってたら料理酒にもならんじゃない。

◇ピータン(皮蛋)
中国料理の冷菜によく出るアヒルの卵を石灰粘土で固めて熟成(腐敗じゃないのか?)させたもの。自分では作れない(こともないらしいが)から出来合いを買っている。1個で100円くらいするか。中華街に出向けばもっと安い。一般的にはアヒルの卵が用いられるが、鶉や鶏卵もあるようだ。

ピータン

水洗しながら周囲を覆う籾殻と土を落とし、鶏卵よりも一回り大きくて硬い殻を剥く。黄身部分の硬さで半熟から完熟まで種類がいろいろあり、切り方を変えなければならない。暗褐色~暗緑色のゼリー状になった卵を適当に割って空気に晒すと臭みが和らぐ。そのままでも食えるが、白髭葱を散らし、漬け肉用のつゆ(甘辛醤油ベース、八角入り)で食べてみた。酢と胡麻油に香菜を散らしてもよいだろう。濃厚でまったりとした重さと独特のアンモニア+硫化水素臭は癖になるが、よくもまぁ、こんなもの考え出したよなと感心する。ちなみに中国語で殻つきの卵は蛋と書く。蛋は単独では使わずに鶏蛋とか鴨蛋とか必ず種類をつける。料理以外で使われる“蛋”にはロクな意味はないので注意。

■苦闘の歴史(その始まり篇)

■海苔巻き
海苔巻きは鮨屋で食うに限る。それはまったく具の問題ではない。人肌のまだ酢が蒸散している酢飯、巻きたてのパリッとした炙り海苔、具を際立たせる山葵の香りと刺激という意味において、目の前で巻いて切ってもらったものを食うという以外に食いようがないものだからなのだ。巻簾のなかできゅっと巻かれ、柳刃でスパッと一刀両断にされ、「へぃ、お待ち」と、音もなく下駄に鎮座したもの(製作時間15秒以下)をおもむろにむんずと摘まんで、そのままパクッと食うものなのだ。

ということで干瓢を買う。乾物コーナーの片隅に申し訳なさそうに鎮座している栃木の無漂白ものを買ってみた。水を数回換えながらもみ洗い。絞った干瓢を醤油、みりん、砂糖でしっかりと煮付ける。甘辛の口当たりと歯応えのある繊維質の固さを目指してみた。

飯は水少なめで3合炊く。適当な寿司酢がないし、最初から上手くいくとは思っていないので、普通の米酢180ccに上白糖大匙2、塩大匙1.5、酒ちょっとを合わせ寿司酢とする。配合は地域や目的で異なってくると思うが、取敢えず、酢が利いた昔懐かし甘めの江戸前風を目指す。普通に炊飯器で炊き上げた飯は、温かいうちに櫃にとって上記合わせ酢をドバッと掛けて、しゃもじで切るように混ぜ込んでいく。団扇であおぎながら満遍なく混じったら、指にとって試食い。おお、うまいじゃないか。あとは人肌まで冷ますだけ。ここまでは準備万端である。

考えるまでもなく難関は巻である。焼き海苔を半分に切る。巻簾に載せる。酢飯を薄く広げ、山葵を塗り、煮込んだ干瓢を載せる。のりの上辺を湿らせて、手前を巻き上げてくぃっと。一旦戻して再度巻いて指で押さえてきゅっと力を加える。ハイできあがりぃ~のはずだが、これがまぁ、上手くいかないんだわ(笑)。干瓢が真ん中に入らない、巻いたはずが分解する、慎重にやると海苔が湿ってふにゃふにゃ、巻き加減が一定しないから詰まり過ぎたりふわふわだったり。2合の酢飯で6本ぐらい巻けるが、見れるのは2本あるかないか。うむむ。干瓢も思ったよりは使うので一袋ではまったく足りないし、かなり濃く味付けしないと酢飯に負けてしまう。というわけで散々。味は悪くないと思うが、写真を撮れるようになるには1年かかりそうだ。

鉄火や河童は6等分で供されるが、干瓢巻だけは一本を4分割するのが鮨の作法である。2等分を2回繰り返せばいいはずなのだが、これがまた長さがまちまち。干瓢が寄ってばらけそうになるし、端部の酢飯の入りが不十分だったりと満足に切ることも難しい。手巻きという手法もあるが、一口で食えずに食いちぎりながら食うのはあまりにも興趣に欠ける。オニギリじゃないんだから。

■揚げもの二題

■穴子天
松島の特大穴子が捨て値だったので2匹購入。捌いてもらったが肝はあっさり捨てられてしまった。小振りなものを捌いて一匹丸ごと揚げるのが定番であるが、こりゃでかい。白焼きにしようか迷ったが、けっこう脂が乗っていたのでぶつ切りにして天麩羅にした。

湯でぬめりを取って常温に戻し、冷たい薄力粉をはたく。衣を用意して胡麻油中温でざっくりと揚げる。皮を下にすれば丸まらない。胡麻油の場合揚げ過ぎるとしつこくなるので、音が変わったらすかさず引き揚げてかまわない。軽めがちょうど良い。なかはホロホロ、がわはさくり(サクサクではない)といった按配を目指す。淡白な白身の旨味と胡麻油の香りを返しが効いた天つゆと辛めに下ろした大根のみで味わう。とはいっても、穴子は間違っても高級料理ではなく、めしのおかず、安価で腹の足しになる菜肴である。がつがつ、わしわし、むしゃむしゃ腹いっぱい食うものであることを忘れないようにしよう。

天麩羅は冷酒を片手に揚げながら食っているので、写真を撮るのは難しい。穴子は特に揚げたて、軽く油を切って天つゆがジュッと音を立てるくらいで食べる以外に方法がない。

■芝海老かき揚げ
昔、芝増上寺の前が海だった頃、たくさん獲れたから芝海老。子供の頃、飢えて笊を片手に舟溜りですくって生のまま食っていたのも芝海老(3,4cmの幼生だったけど)。今でも内湾にいないことはないだろうが、漁として成立しているかどうかは知らない。もう何年もそこらの魚屋では見たことも聞いたことないものだが、これは遥々九州からやって来たもの。生鮮の良材は滅多に手に入らない地域ゆえ、頭がついて、生であるだけでも良しとしなければいけないだろう。芝海老は殻が薄く、頭や尻尾に旨味が凝縮されているからそのままかき揚げにする。かき揚げとは本来「芝海老+小柱+三つ葉」を指すが、淡白すぎるせいか今やかなり探さないと食べれないものの一つになってしまった。残念ながら小柱は用意できなかったので割愛。蕎麦の供に自家製蕎麦つゆで食べる。

芝海老

芝海老は冷たい塩水で軽く洗い水をよく切る。凸部が指に刺さって痛いから適当でよい。髭が絡まっているが無理に解く必要もない。ボールに冷たい卵1個を溶いて、芝海老、刻んだ三つ葉、冷凍庫で保存している薄力粉、片栗粉、氷水を適当にぶっこんで軽く合わせる。140度(と自分で思っているだけ)ぐらいの低温でゆっくり揚げ始める。揚げ油は太白胡麻に門屋の胡麻油を合わせ、穀物系植物油で割ったもの。髭が絡んでばらけなくてちょうどよい。反転させたら少し油温を上げてからっと揚げきる。揚げ過ぎると固くなる。海老の中心部が半生くらいがベストかな。紙に油を吸わせたら、熱々のかき揚げをきんきんに冷えている蕎麦つゆと氷できゅっと締めた蕎麦で食う。水源が遠いせいか家の辺りは水がぬるくてかなわん。シンプルに海塩を振るか、下ろし大根でもおいしい。穏やかで淡白な芝海老と三つ葉のシャッキリ感が醸し出す類稀な調和。小柱の歯ざわりと磯の匂いがあれば完璧だったな。かりっとした頭や殻とむっちりした身肉の対比を愉しみ、返しと山葵の香りを満喫する。

かき揚げ

ちなみに天麩羅屋で食う“かき揚げ”は殻を剥いて丁寧に背腸を取った芝海老を使うところと、小振りなものを殻ごと揚げるところと両方あるようです。芝海老があまり出回らなくなった結果、代用として桜海老を平気で使ったりする店も見受けられるが、あれは香ばしすぎて調和がぶち壊しだわ。白ギス、メゴチ、穴子なんぞの繊細で淡白な旨味を生かす天麩羅とは違う食い物になってしまう。

天麩羅の原型は江戸時代の24時間営業の屋台菜肴、魚介串揚げにあったわけだが、立ち食いの下司な食い物として“すし”と共に大変人気があったらしい。当時の天麩羅は串刺しで、今の立ち飲み「二度付け禁止(漬けか?)」の串揚げのように店先の天つゆ壷にドボンと突っ込んで食っていたらしい。

■やっぱり向いていない

◇ひよこ豆と南瓜と茄子の南蛮香味煮
作り方はいつもと同じ。玉葱中1個、大蒜と生姜たっぷり。ターメリックとパプリカはほぼ同量。清涼感を増すためにグリーン・カルダモンとシナモンは多め、コリアンダーの実を砕いたものを仕上がり5分前に追加している。缶詰トマト以外にぶなシメジと生トマトも加えている。

カレー

今回は米に併せてみた。粘りがあるゆえ、あまり適切とは思えない“ふさおとめ”新米しかなかったので、“ひとめぼれ”の玄米を20%ほど混入して炊いている。このところ更に手際が良くなって、(肉を使わなければ)思い立ったら20分コース。そんじょそこらのインド親父には負けないぜと自負しているが、万人受けするかはかなり微妙(笑)。タマリンドを買ってきて、今度は南インド風にしてみよう。椰子の実も欲しいな。頭ちょん切って、なかにパパイアの果肉をさいの目に切ったものを入れてもらって抱えて飲むと旨いんだ。

◇あら
アラという魚じゃなくて、粗のほう。このところ粗が好きな人が多くて助かるね。魚屋なんぞにも粗が選択的にパックされて売物になっているが、そんなものが売物になるというのも、なんともスザマジイご時世だ。ありがたいことに、外でも「お、アラ煮ですな、粋ですな」とか言っておけば、私はもっぱら身を食べることに専念できるというもの。その一方で、“活け造り”なんていう何とも趣味の悪い作法がまかり通っているあたりは矛盾の極みであるように思えてならない。生きている魚なんてコリコリしているだけで基本的においしくないし、ましてや食材として食べられるアラを敢えて見栄えのためだけに“飾る”ことは殊更虚しい。普通に一匹買ってくるなり、釣ってくれば身も粗も当たり前のように食べるなり出汁をとるなりできるのに。

どこに行っても秋刀魚ばかりだが、高いしあまりパッとしない。そんなに秋刀魚っておいしかったかな。近在で揚がり始めるのは10月になってからなので、それからでいいわと思ってしまうので食指が動かない。今は捨値の汐っ子(カンパチの子供)やワカシ、イナダ、或いは穴子でも食いながら時期が巡るのを待とう。

■今月の鮨ネタ

津軽海峡産生本鮪がお目見えし始めた。中トロも良いが、鮮明な赤としっとりと落ち着いた香味、微かな酸味と滑らかな舌触りの赤身が素晴らしいバランスだ。畜養に慣れた舌にはさっぱりしすぎで旨味が薄いだろう。鮪は滅多に食べれない魚だが、たまに食うとおいしいね。鯖も旨くなってきた。蕩けそうなまでに丁寧に熟成された関鯖も良いが、やはり真鯖をきちんとしたポリシーの元に締め、雑味を排した禁欲的なまでの酢飯に合わせたものには適わない。酢の香りと脂の旨味のバランス、銀、薄ピンク、赤紫の色鮮やかな見栄えは芸術的ですらある。小肌は一匹で一貫付け(腹開きの身をそのまま握る)に成長した。来月くらいには半身一貫か。酢締め自体は流通や冷蔵技術が未発達だった過去の知恵であるが、単なる調味料が料理にまで高められた技法を生む結果になったわけで、酢の存在こそが鮨をただの刺身や造りとは一線を画している根本的な要素であることを忘れてはならないだろう。生牡蠣を剥いてライムを搾って海水味で食べるのはおいしいが、それは料理ではなくてただの食い物である。伝統的に小肌を食べる地域にありながら、小肌や鯖、あるいはシャリそのものがおいしくない鮨はどこか根本的な作法を間違えているように思えてならない。

今が旬の穴子でこしらえた穴子肝の軍艦握りが絶品。小葱、煮切りで。一貫に5匹分くらいは必要だろう。しっとり、まったりとしていながら生臭みを感じさせない甘みと苦みは癖になる。昨今の粗雑で愚鈍なアン肝よりどう見ても上だろう。たっぷりと身肉が膨らんだ穴子握りも焼き目の香ばしさが最高の味わいだ。塩でも詰めでもよいだろう。皮目を表に握るか、身を見せるかいつも疑問に思っていたのだが、身肉が丸まる方向で決めていると板前に教わった。概ね頭に近いほうは皮目を上に、尻尾に近いほうは身を上に握ると崩れにくいそうだ。女性の中には皮目を嫌がる人がいるから無理に身を表にすることもあるらしい。

そろそろ出回り始めた車海老は踊りも良い(握りの上から落ちてしまうのはちょっとなぁ)が、やはり軽く茹でたほうが旨味は遥かに増す。シャリの倍以上はある丸みを帯びた鮮やかな橙の巨躯をむしゃむしゃと食う。身肉の豊かな甘みと僅かに残るように毟り取られた頭の味噌の苦味のバランスはすこぶる伝統的な味わいだ。半生の甲殻類は醤油なしでも十分に濃厚な味があるが、握りとしてはちょいと大きすぎる。腹が膨れてしまうじゃないか。秋刀魚は盆明けは食べない。焼き物にすべきだろう。この時期になると脂がのりすぎで味がわからなくなるので自然と疎遠になるものだ。

2;サーバごっこ機 いまだPlamo Linux 2.0改-0.18GHz不眠不休号

ここはもう中項目としての必然性がないな。修正しようと考えてはいるが涼しくなったらねぇ。…まだ涼しくないからそのまま。

3;スキャナ機 NT5.1 sp2 Home セレロン2.2GHz新まんせえ!号

OSを入れ替えるか別の機械を割り当てるか、そろそろ先を見越して計画を立てねばならない。…そのうちそのうち。

4;Win機 NT5.0 sp4⇒NT5.1 sp2 早くも1.8GHzに降格?

DVD関係をちょっといじるが詳細は書かないのがお約束。

Doom

今月は手付かず。


2007/09/19 作成__2007/09/19 最終更新