閏七月記 -(2006/8/24-2006/9/21)

1;諸々

おお。今年は閏月のある年であった。もちろん9月22日から葉月である。ずれるなぁ。ということで、約十日遅れの更新です。ついでに論理的に破綻しているメニュー部分をわかりにくくならない程度に整理しました。スクロールも減っていいじゃないかと自画自賛。

最寄のJREの駅周辺が、元からたいしたことはなかったとはいえ、この期に及んですっかり廃墟と化してしまったので、隣町で用足しをする機会が増えた。ほとんど私鉄を利用するが、私鉄同士ならチケットが共通だから乗り換えも気にならない。来春にはパスネットもIC化されJRも利用できるようで、クレジットカード決済機能がつくらしいのでだいぶ利便性が増す。

17吋モニターを2台廃棄。共に10年以上使えたからよしとしよう。最初のものは1994年だから、もう12年も前になるのだなぁ。自治体に回収を依頼するとリサイクルなんかしないくせに途方もない額を取られるが、幸い出入りしている民間の回収業者が二台ともただで持って行ってくれた。90年代のNANAO製だからけっこう金(Au)とか使っているのだろうね。

■ここに至って心を去来する由無しごと

若竹七海『八月の降霊会』は、やっぱりホラーなのね。落とそうと思えば落とせた気もするが。天気が良いので超市場で凍結でんでん虫と葡萄酒を買うついでに、店内書店で京極夏彦の新作を探すもないな。田舎だから。仕方がないので生カキと麦酒で昼ご飯。生カキだけで腹を膨らまそうとするのにも経済的に無理がありそうなので、蕩けそうにむっちりとした黒ムツとハタに暫時遷移撤退するも再び顔を見せ始めた赤貝に目が眩み結局元の木阿弥。

Bleu de ciel

森博嗣『四季-春』『四季-夏』『四季-秋』まで読了。以前、出し惜しみと水増しが酷くなってきたので、すっかり手に取らなくなっていたが、まとめて四冊きれいに入手できたのでようやく着手。内容的には今までのシリーズものの“ネタばれ”と薄っぺらい人格でしかなかった“四季”の肉付けか。四季の視点で描かれた一人称は上手いのか下手なのかよくわからん。特異さと平凡さの縫合が不自然というか。個人的には三人称の物語作家だろう。『冬』はまだ未読だが、『秋』はかつてのファンに受けただろう。しかし、この余白の多さはなんだ? 詩集かいな。そういえば遥かな昔、五木寛之の「四季」シリーズというのもあった。あれは「奈津子」「亜紀子」「波留子」「布由子」の四人姉妹の話でやはり4冊だった(ような気がする)。子供なりにけっこう面白かった記憶があるので捜索して再読してみよう。

引き続き赤江瀑と辻邦生の古書を収集中。一応、送料込みで定価よりは高くないというのが最低限の許容範囲なので、なかなか進まない。小学高学年のころ夢中になった富島健夫『女人追憶』も収集中だが、これもなかなか集まらん(笑)。う~ん、妙ちゃん、あまりにも懐かしい。ミステリィは歌野晶午の未読、ピーター・ロビンスンのヨークシャーものあたり。芦原すなおの『東京シック・ブルース』をようやく入手するも未読。

BJHのドイツでのライブDVD、カメレオンズのDVDを半額セールで入手。BJHは鍵盤が原初構成員でなくちょっと期待はずれ。中身は84年と87年のライブということでそれなりに映像・音響はきれいにまとまっている。カメレオンズはライブと一部PV映像? TV用の映像か。かなり荒っぽいが新鮮で面白い。しかし、イングランドの聴衆ののりの悪さ、というか厳しさは毎度特筆ものだな(笑)。こりゃ、鍛えられるわ。

Contrast

映画のDVD。ブラームスが流れる(一応音楽はナイマン)ルコントの『仕立て屋の恋(原題:ムシュー・イール)』は、まぁ、どうしようもないというか、なんというか……。予想は出来るが溜息が出る。原作はジョルジュ・シムノンらしいが、映画もよく出来ていると思うし非常に旨い。映像は予定調和的なわかり易さが気になる部分もあるが、あちこちではっとさせられるほど淡く、鮮烈で、そして美しい。気温が伝わりそうな空気感と、柔らかな色彩感。すべてのシーンが絵になっている。マリーちゃんが可愛いぞ。

■秋なのか雨なのか…はっきりして欲しいこのごろ

◇アゴだし
ある日突然、目の前に2kgのアゴ出汁が忽然と出現する。ばらけた乾燥もの。西の日本海側ではトビウオのことをアゴと呼ぶらしい。出汁に使えということなのだろうが、2.5kgで450円のトマト缶を買って喜んでいる小心な貧乏人にとっては、いったいいくらしたのか怖くて訊けない。魚ではあるが、非常にあっさりとお上品な出汁が取れるのでそれなりに重宝しています。出汁を取って漉した屑はそのまま食べても、醤油漬けにしてもなかなかおいしい。

◇赤いか
ここ数年、よく見かけるようになった。剣先イカ(ヤリイカ科)の俗名(築地市場の通称)か。えんぺらがでかく、肝は小さい。柔らかくて皮が剥きやすい。皮が剥きやすいというのは素人にとっては大きな利点でもある。25cmほど。ばらすのは簡単。するめは職人が乾いた布でこそぎ取っているのを鮨屋で見かけるが、けっこう手強いのだよね。

◇かんぱち
鹿島灘産かんぱちを三匹。いわゆる“汐っ子”と呼ばれる20cmほどの幼魚。身は刺身、残りは煮付け。コラーゲンが抽出されてぷりぷりの煮凝りになる。夏魚ということでさっぱり系。身は硬く爽やか。

◇ブドウ海老
ブドウエビ(ヒゴロモエビ)が歯応えのあるしっかりとしたプリプリさで甘い。銚子以北の太平洋側で獲れるらしい。今回のものは宮城産といっていたから気仙沼だろう。ボタンエビ(富山湾以北の日本海側で獲れる、いわゆるボタンエビとは違う)と似ているが、殻が紫色を呈しており見目鮮やか。板さんも話に聞いたことはあるけれど、これは見るの初めてと笑っていた。

◇漬け+ひかりもの
芥子と葱で食べる目鯛の漬け、コクがあって最高。締めたての鯖のマゼンタ、ピンク、シルバー、ダークパープルの取り合わせも美しい。真鯖にもふっくらと脂が乗り始め、肥え過ぎていない身の味わいが薄い酢によく合う。白身の品揃えと酢締めの味わいをあちこちで食べ比べるのが楽しい。

この時期、小肌がおいしい。大き過ぎず小さ過ぎず、仄かな脂のりと爽やかな身肉。新子>小肌>なかずみ>このしろ と改名する出世魚だが、鰤等とは逆に若いほど価値が高い。手間は別としても、小さいほど身が柔らかく、皮が薄いからだろう。小肌を頼んで新子が出てくると顔が綻んでしまう。魚屋では何故かほとんど見かけない小肌だが、店では暇な時間に眺めていると、丁寧に開いた身を、丸い大きな竹ざるに同心円状にきれいに並べ、開いて軽く塩を振り干して酢洗い、生酢(赤酢に酒を振っている?)で軽く浅く締めるだけ。締め過ぎると下品。スーパーで売っているゴムのように固い皮を持ち、漬かり過ぎた粟漬けとはまったくの別物だろう。非常に安価なのも嬉しい。

突端

◇スルメイカ
爆安ものを調達し、刺身ないしは肥えた肝は塩辛で熟成。さすがに生きているものにはお目にかからないが、鮮度はまぁまぁだね。塩辛は身、肝共に塩を振って一晩冷蔵庫で水抜きすると持ちがよく且つ濃厚で美味である。敦賀とか八戸とか酒田とか鶴岡とか能代とは比較にならないけど。

◇エシレの発酵バター
エシレはÉchiré。製造工程中に乳酸菌を加え発酵させたバターで、いわゆる普通のバターとは風味、味の濃さが違う本来のバター。エシレの正規輸入品ははっきり言って高過ぎる(まぁ、AOC認定だからVinと同じ)ので、トラピストとかカルピスでもいいけれど、パン好きには堪えられない味わいと香りである。ガレット(蕎麦粉で作った甘くないクレープ)とかにもいいかなぁ。素朴なバターの味がする。

◇乾燥小麦麺
デチェコのリングイネ・ピッコレをまとめ買い。名前通り断面形状がいっそう小体で好感である。普通のリングイネだときし麺のように大味だ。きし麺とかホウトウとかきりたんぽ(ちょっと違うか)とか、どうもああいう肉厚な食感は苦手な部類に入る。

◇アンチョビー
カタクチ鰯発見。1パック78円で3パック、1kg弱を年末のアンチョビー用に購入。さっそく平タッパで塩漬け。9月上旬塩漬けで12月上旬まで3ヶ月。その後、頭と腸落としてオリーブオイル漬け。買うと馬鹿みたいに高価だが、手間と時間さえ掛ければきわめて安価である。現在約一月経過。煮干のように締り、出た飽和食塩水に浸っている。

◇ヤリイカ
9月中に入って入荷。まだ子供。柔らかくて大変おいしい。そしてなんと言ってもするめに比して皮を剥くのが極めて楽でこれまたよろしい。肝はほとんどないので塩辛には出来ないが、そのまま食っても甘く味わいがある。おそらく生涯で食べたイカの中で最も美味しかったのは、スルメなら夏の八戸で漁火を眺めながら、ヤリなら春先の新潟山形県境の鼠ヶ関漁港でおばちゃんに剥いてもらって食ったものだろう。今となっては遥かな昔。同じ味を求め続けて数十年が経ったが未だにありつけない。行けばいいって? そりゃそうだ。

◇久々に中華料理
隣町の中華。大きな町だからさすがにコアな店が多い(笑)。上海料理らしく非常にさっぱりとして洗練されている。泥臭さはない。かつては横浜の南京町にもずいぶん通ったが、確かに他の中華とは一味違った爽快さがひとつの特徴になっている。面倒だから中程度のコースに名物麻婆豆腐を組み込んだものを所望したが、麦酒、老酒を片手にかなりの分量にもかかわらず完食した。胃モタレなし、熱々、タイミング完璧。美味しかった。麻婆豆腐は熱々の蒸しパン(銀絲捲)をほじって流し込んで食うというもの。花椒がしっかり効いた麻婆豆腐自体の香味がすばらしい。まったく別の食い物。食い方やメニューはもう説明したくて仕方がない店長が懇切丁寧に説明してくれる。

◇豚キムチ弁当
乳酸発酵している本来のキムチを使った朝鮮食材店の焼肉弁当である。肉を食いたいと思うことはほとんどないし、クレジットカードのポイントで貰った牛肉はおいしいからよく食べるが、稀に魚に飽きるとこの弁当を食す。キムチもピンキリであるが、唐辛子がきちんと入っていて、尚且つアミが使われていて、更に乳酸発酵しているものはあまりない。甘辛くて酸っぱくて味わい深い“濃さ”こそがキムチの真髄であろう。名詞の前にいちいち、本――とか本来の――とかは付けるのは面倒であるが、偽ものが主流として崇め奉られるのだから仕方ない。

台風

◇炙りもの
トロを炙って悦にいるのは見苦しい。生で食えよ、もったいない。と貧乏人としては僻んでおこう。で、炙り鰆、炙り太刀魚あたりでお茶を濁すのがローエンドの作法といえよう。握ってもらっても初秋の風物詩だが、鰆の幼魚である(ずっと安価な)さごちあたりを買ってきて皮を炙り、ほんの軽く酢締めにしたり、醤油、酒、みりんでしゃぶしゃぶ風にしても面白い。脂が軽くしつこくないので飯にも合う。

◇シャコ
蝦蛄である。そろそろ季節も終わり。今年は卵を抱いたメスを食う機会が多かったのだが、意外に不漁だったらしい。特に大きなものは不漁で旨味の薄い痩せたものしか入らないと板前がぼやいていた。稀にネタケースになかなか見栄えのいい蝦蛄があったりしても、輸入の冷凍ものだったりするので、確かに当たっているのかもしれない。近縁では小柴(金沢八景の近くね)の蝦蛄が著名だが、もちろんそんなものは滅多に口に入らない高級品である。

◇マヨネーズとケチャップ
いつの間にか必要のないもの。体が受け付けなくなったもの。300mlくらいの小さなチューブを消費するのに数年かかるようだが、突如冷蔵庫の深部から発掘された筐体を眺めても普通に使えるところがまた怖い。タルタルソースやサワークリーム、サンドイッチ・スプレッド、トマトソースにはまったく抵抗はないが、どうもあの人工的な味わいと粘度を躰が拒絶する。最近の安いサンドイッチには大抵マヨネーズが使われているので買うことはなくなった。たこ焼きやらお好み焼きに問答無用でマヨネーズを掛けるのも勘弁してくれ。

いわゆる“ソース”は揚げ物以外に使い道はないからこだわりもない。市販のソース焼きそばは粉ソースを捨てて胡麻油と葱と帆立出汁なんぞで一気に炒め、醤油味にしてパクチーを添付するといっそうおいしく食べれる。ピンきりだがオイスターソースにナンプラーはOK。オイスターソースはかなり高価だが値段は質に比例する。ナンプラーはおおむね安いがアンチョビーを作ると放っておいてもたくさん出来る。

ドレッシングは自分で作れば事足りるというか、加工食品には心惹かれない。味付けがどれもこれもみんな甘い。売るために万人受けする味付けを施して、材料が本来持つ旨味を殺しているのも不甲斐ない。要するに何でもかんでもお子様向けという問題であるが、胡椒と菜種油、オリーブ油、胡麻油、酢、バルサミコ、ヴィネガーあたりがあればそれで済む。まったく売れなくて捨て値で半額とかになっているディジョンのマスタードは面白いから買う。辛くはないがきちんと風味が合ってワインヴィネガーが効いている。舐めてもおいしい。

自分で自分を分析しても面白くもなんともないのだが、基本的に雑味が多すぎるものが苦手なのだろう。その際たるものがいわゆる加工食品で、同じものを本来必要な吟味した材料だけで自作して始めてその差がわかる。粗悪な素材、あるいは代用材の味を誤魔化すために市販品には種々雑多な物質が添加されていて、その味に舌が反応するからだろう。現代は逆にその雑味がもてはやされている傾向にあるのかもしれないが、 冬=鍋などという短絡的反応は勘弁してほしいものだが、

あらあら、いつの間にやら今度は酒呑みが目の敵に。江戸の昼酒を禁じた薩長体制もいよいよ堅固に継承されていく証か。文化に成りきれなかった田舎のしきたりと田舎侍のコンプレクスの賜物はますます隆盛にして七光りを後光に背負いオール三代目の栄華を誇ると、あー、よいよい。心の底からお似合いだと思う。昼の繁盛時を外して、2時くらいから海鞘をつまみに一人呑み摘むのもますますマイノリティの鄙びた気配が漂うものだ。可能な限り距離をとり、可能な限り関わらず、可能な限り自らの才と能だけを信頼して、何も求めず、何も期待せず、信仰も信念も何一つ持たず漂うように余生を全うしよう。三猿+感ぜず、味あわずの不毛の地平の向こうに何があるのか、あるいはないのか。百年経てば河の水は澄むかもしれないが、それを認識できる自分はもういない。

もっとも、塩野七生がいうサイレント・マイノリティと私が考えるマイノリティは多分似ているようでまったく違うものだ。強者の歯車に組み込まれないことに美的価値観があるとは思わないし、共感もしない。いまやそんなものは胡散臭くて滑稽ですらある。この世に蔓延るよしなしごとなんて、夏の終わりの花火のようにゆるりと楽しめばよいではないか。

秋のバラ

2;サーバごっこ機 いまだPlamo Linux 2.0改-0.18GHz不眠不休号

動いているCPUファンをダストクリーナーで吹いたら、埃が目詰まりしてファンがとまった。寿命か? と焦ったが毎度の話。埃が引っ掛かってファンが回らないようだ。ヒートシンクはどんどん熱くなるし、うへぇ~と指突っ込んで埃をほじる。あちゃあちゃ。3分後、再びぶーんと回り始めたファンを見て感慨深い。このファン、いつまで回り続けるのだろうか。

旧枯れススキ号が空いたから、腐れIDEカードを全部引っこ抜いてシリアルATAに換えれば予備機になるな。

3;スキャナ機 Plamo Linux 3.2 p5-0.166GHzまんせえ!号

不調の起動HDDを諦めて別HDDにシステム部分をコピー。動けぇ~動けぇ。マウントポイントを弄くって、お祈りお祈り、Grubを書き換えてぽちっと再起動すると嘘のように起動するのがUnixの良さ。あは~、楽チン楽チン。

4;Win機 NT5.0 sp4⇒NT5.1 sp2 チェレロンD 2.?GHzに出世?

9/20頓死。朝、起動後固まる。5時間格闘後、IDE系統がどうも腐っているようでOSインスコすら不可能に。面倒なのでローエンドのチェレロンDとかいうものを「今すぐ持って帰って動くやつ、頭ついたままでいいよ」と往復32分で一台調達。忙しいんだってば。メモリだけ27秒ほど悩んで追加して1GBにしたら高くついたぞ。世の中進歩してるから19,800ぐらいかと思っていたらそうでもないのね。後になって考えればOS分が痛かったな。コンピュータはお金を稼ぐ道具だからお金を掛けても仕方がないが、予備機があると心の安寧と支えになるなぁ……もう一台買っとくか。

とりあえず本体を既存の環境に置き換える。ボタンを押せば起動すると…あ、ほいほい。とここまでは良かったのだが何故かあまり速くない上にサーバや他の機械に繋がらん。見直し及び試行錯誤に2時間。pingは通るし見えているのにどう足掻いてもアクセスが拒否される。死体から引っこ抜いたHDDを繋いだスキャナ機に繋がらないとデータが取り出せない。わはは、焦った。まさかな? と鍵盤ドライバを確認しても特におかしくはない……はずだが、と試しにメモ帳でパスワードを打ち込むと「は?」。記号の配列が106日本語鍵盤でやんの。舐めてんの? 106で記号の位置を確認しパスワードを打ち込むとping-pong。Windows系のネットワークに手こずるなんて(注:ほんとはいちばんやっかい;笑)身辺を整理して山に篭ろうと思ったわ。

どうにも画面がほにょほにょ煩いので無意味な見栄えはすべてWin2k風に黙らせて、今、いちばん気になるのは各ファイルへのアクセス権が設定できない? ことと、IMEのバーからCAPSとKANAの表示を消せないこと。ナチュラルインプットはどうも挙動がおかしいからスタンダードに変更。ほにょほにょ動いたり、トレイに入らないのは百歩譲るとしてもだ、CAPSはレジストリをいじってCtrlと入れ替えているし、KANAキーは物理的に存在しないのでまったく意味なし。直接入力のときだけ非表示にも出来なくなった。だいたいマウスでしか操作できないところにキーボードの切り替えボタンを置くことに何の意味があるんだよぅ? 最近は手が三本あるのがデフォルトなのか? 以下次号。

Doom

今月も暇なしにて候。


2006/09/30 作成