映像の話2

相も変わらず時節を外れた素っ頓狂な選択眼がちょっと恥ずかしいが、今回はジョディ・フォスターでまとめてみた。ある程度内容に触れざるを得ないので、余計な情報を知りたくない人は読まないが吉。念のため。
しかし、映画の評というのは滅茶苦茶だな。どこをどう見るとそういう評ができるのか、本当に見て書いているのか? と疑問符だらけ。

『白い家の少女』

白い家の少女 The little girl who lives down the lane
1976
監督:ニコラス・ジェスネール
ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント
TSMD-57022 [2006]

今夏ようやくDVD化された1976年のカナダ・仏・米合作。一応、サイコ・スリラーと銘打たれているものの、別に怖くはない。驚異的な演技力を発揮する主役、リン役のジョディ・フォスターはアメリカ人だが、スタッフは恐らくケベック人なのだろう。原作者レア―ド・ケニッヒが脚本も書いているというあたり無駄がなく、何気ないシーンすべてにきちんと意味があるという非常に凝った唸らせる展開が見事でもある。敢えて語らず、映像としてすべてを描かずに、見る側の想像力を膨らませるカメラも最近ではなかなかできない芸当だろう。
映画の作りが明らかにアメリカ映画というよりはフランス映画に近い。巧妙に張り巡らされた伏線の妙と美しくも寂しい霧と降り続ける雨、ひっそりと積もった雪、晴れることのない冬のニュー・イングランドの情景をバックにダッフルコートを着て少年のように歩くリンに目は釘付け。
原題は『小路の奥に住む少女』といった感触だろう。

さて、数十年ぶりに再見して、今やマーティン・シーン演ずる嫌な野郎の気持ちが手にとるようにわかる(笑)。他人を突き放すような涼しい瞳、父親の教えを忠実に守り、自分の世界を守るために孤独に耐え、それでいて、賢く聡明で相手に合わせて駆け引きもできる、でもやっぱり子供だから詰めが甘い。たった13歳(演じるフォスターも当時13歳)の、そんなリンのときには妖艶なまでの魅力に惹きつけられるのは登場人物たちとまったく同じ。改めて惚れ直してしまった。
仲良くなった足が不自由な彼ですら、社会との関わりの中で生きていて、一人では生きていけないことを知り苦悩もするし、クリスマスの夜、場末の安レストランでケーキを頼むのに、結局手をつけずに出て来てしまうように圧倒的なまでの孤独に打ちのめされもする。病院で、彼を前に吐露してしまう切ないまでの心情も痛々しい。そして、ラストのアップ、男に髪を平然と触らせながら、自分の行為の結果を見据える青い瞳。彼にはもう頼めない。頭の中ではどう処理するかフル回転なのだろう。う~ん、オジサンが手伝ってあげるよ。

全編に流れる音楽はショパンのピアノ・コンチェルト1番。

『羊たちの沈黙』

羊たちの沈黙 The silence of the lambs
1991
監督:ジョナサン・デミ
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
G-15907 [2005]

こちらは極めて著名かつ典型的なハリウッド映画。
これまたちっとも怖くなくて、こちらは製作年代が今に近いだけちょっとグロい、フォスター29歳の賞取り映画でもある。
これまた典型的な変態映画なのだがアメリカ人は変態が好きだなぁ。過剰な繁栄は滅亡への近道としか云いようがないな。で、主役のはずが脇役にかすんでしまった変態野郎はどうでもよくて、やはりこれまた典型的な二元論的善の象徴としての才媛クラリス(ジョディ・フォスター)と邪悪の権化としての精神科医レクター(アントニー・ホプキンス)の微妙に通じ合ってしまう危うい関係性が非直截的で唸らせる。レクターは小羊のトラウマを語らせ、内実を晒したクラリスのなかの羊の悲痛な叫びを止めてやるためにアドヴァイスを与えるが、その関わりが中途半端で弱いのは残念だ。レクターの人物造詣は興味深いが、せっかくだからもっとクラリスを精神分析的に苛め、誘導し、服従させるような濃密な展開が欲しかった。唯一の物理的接触である絵を返しに来たクラリスの指を檻越しに撫でるシーンは極めて印象的だが、二人の関係性をもう少し深めておけば、会話だけでも本筋そっちのけの面白い展開になっただろう。

ときおり挿入されるロングショットは映像全体の良いアクセントになっているが、場面展開のテンポはちょっとせわしないというか単なる説明のための無駄なシーンが多い。抑制気味の落ち着いた映像ではあるが、良くも悪くもアメリカン・ムーヴィ。

ラストはありがちな展開。カリブの国からクラリスちゃんにわざわざ電話してくるレクターがかまってちゃんでとても可愛い。


2006/07/17 作成