長月記-(2005/10/03-11/01)

1;諸々

すっかり月の呼称がずれてくると何が正しいのかよくわからない。一月跳んでいるような気もするが、11月1日が長月の終わりなのだから、今、長月の月記を書くことは本来ならば理に適っているという解釈である。

このところ音楽系のWebを作者名でググルと、頭の方は商売サイトばっかりで非常にウザイ。欲しいものは資料的情報ないしは評論であって劣化音源ではないの。もちろん買わせる為のコピーは併記されているが情報としての価値がないのは言わずもがな。

eastview

「オルメ行かないよ」なぁんて書いておいて、どうせガラガラだろうと実はこっそり見にいこうと思っていたら、キャンセルになってしまったようだ。さすがに前売りが捌けなかったかな? まぁ、しょうもないプロモーターと結託して毎年のように集金にやって来る某カンタベリィ老のようにはならないで欲しかったので、なんだか残念ながらもホッとした。館の領主様は窮したって庭の種あり葡萄をぺっぺしながら葡萄酒造っていて欲しいのだ。現地では年に数回は実演しているようだから、そのうち“ついで”を強引に合わせて見に行こう。

■ここに至って心を去来する由無しごと

「ささにしき」も地盤沈下したものだ。「ひとめぼれ」だの「ふさおとめ」だのコシヒカリ系の改良米よりも古川産ささにしき100%のほうが遥かに安い。ということで地元産コシヒカリ新米を横目に精米したての「ささにしき」に浮気しているこの頃。まぁ、まんざら知らない土地でもないし、あっさりしてて今風ではないけれど酢飯には最適なのだが、気候的変動要素にからきし弱くて採れない年は本当に採れなくて生産量が減っているという話は耳にしていた。今年はヤマセも吹かず、台風も誇大広告みたいなものばっかりだったから出来は上々でしょう。

dawn

■地平線

地平線を見ていたら白い塊が動いた。煙を吐いたところをみると巨大な船だろう。ぐずぐずと建物の陰だったものがあっというまに宙に浮いて見えた。その位置が地平線。大量の輸出用車を呑み込んで何処へ行くのか、自動車運搬船。

horizon

はっきりとは憶えていませんが、ここをコピーレフト化したのは4年位前のことです。元々、字義的にはコピーライトに対する完全な皮肉でもあるわけで、その思想の下に様々なライセンスが考案されて現代に至っているわけです。最も著名なのはLinuxのGPL(General Public License)かなぁ。日本語訳もあるので、ググレば済む話ですが、一応その基本的な概念を示すと、

コピーレフト:

とまとめることができるけれど、平たく言えば、まぁ、好きに使ってくださいよという意図が第一義ですが、最後が肝心なわけで、情報の独占使用を禁じることが肝であるわけです。

■親子にあらず

バッタ

昔はおんぶバッタなどと呼んでいたかもしれないが、親子ではなくて雌雄だと知ったのはいつごろだろう。

■思ひ出

納戸を漁っていたらいろいろと思い出深いものが出てきた。

昔、買わされた戦時債券。もちろん新円切替(デノミ)で屑同然。なけなしの数十万がパァというのは国家と個人の関係をいみじくも象徴しているのは今も昔も変わらぬ現実。別に公務員でも軍人でもなかったが、隣組やら無言の圧力があって“うちはいいや”と言えなかったのは多分今も昔も同じこと。戦局が悪化すると給料代わりに一部債券なんてご時世でもあった。威勢が良かったのは最初だけ、昭和19年の債券には仇討なる表記まであって“なんだかなぁ、話が違うんでないの?”と思ったものです。
一応、20年償還で150%の還付、更に年二回、宝くじみたいな抽選で報奨金が貰えるという触れ込みでした。国民の貯蓄を自動的に戦費に充当するという臨時資金調整法なる法の下での運用で、供出したレアメタルや戦略物資の調達代金として使われたこともあったようです。昭和17年ごろの平均的な教員の初任給が70円だったことを考えると、決してお気軽な金額ではなかった。

報国債券
第8回報国債券

帝都西郊の軍需工場が爆撃を受けるようになるにつれ、戦局は明らかに転機を迎えていたように思えました。19年になると私は子供を連れて実家を頼り、中部地方の片田舎に縁故疎開しておりましたが、夫は皮革職人でしたので軍に徴用され東京に残って軍需工場でそれなりの信任を得て、動員されてきた女学生や一般人を指揮して軍靴や飛行帽の製作指導にあたっておりました。おかげで貴重な現金収入とともに、田舎では手に入らない物品を送ってもらうことで、決して楽ではありませんでしたが子供たちを飢えさせることもなく、田舎での生活が成り立っていたのです。当時は既にお金の価値がなく、着物や時計といった物品でなければ食料を手に入れるのが難しくなっていたのです。都会に比べれば食糧事情はましだったものの、夫に戦死されて持ち合わせもなく、農作業の心得もない都会の女たちがどれほどの辛酸を舐めたかはあえて語りますまい。親戚とはいえ所詮は厄介ものです。大人にとっても子供にとっても決して居心地の良いところではなかったのです。

■戦時債券

敗戦の年のいかにも春爛漫といった南風の吹く暖かい日でした。買出しに出た帰り、頻発する空襲警報で東海道線は遅れに遅れ、下車駅にたどり着いたころには日が落ちて、藍色の空が街を被い尽くしていました。やっとの思いで買い付けた貴重な食料を背に、ホームをぞろぞろと改札に向かうところでまた警報。バタバタと走る人、駅員が退避、退避と大声で叫びながら乗客を誘導していました。間髪をいれずズンズンと腹の底に響くような地響きが聞こえると、北の空が真っ赤に燃え上がりました。街は灯火管制で真っ暗でしたが、10kmほどの距離にある、今は世界有数の自動車工場になっている軍需工場の密集地が爆撃されているようでした。赤々と燃え上がる範囲が見る見るうちに広がって、視界を被い尽くします。茫然と立ち尽くす人の中からこりゃ全滅だと溜息のような声が上がりました。正に火の海。顔が熱く火照り、のっぺりとした火の壁が目の前に迫ってくるような恐怖と崩壊感に囚われたものです。

新聞やラヂオがいくら大勝利を伝えようとも、そのとき日本は負けたのだと悟りました。死に物狂いで家路を辿り、夜もふけるのもかまわずに、わたしは疎開してきたときに持ち込んできた荷物の梱包を解きました。翌朝、二人の幼い娘を呼んで、その荷物の中身を与えました。おもちゃなど買い与えられる時勢ではありませんでした。私が桐の箱から取り出したものは年に一度だけ、ひっそりと座敷に飾る雛人形でした。嫁いだときに母から戴いた先祖から伝わるもので、いずれは娘に持たせてやるはずのものでしたが、明日はこの家の上にあの爆弾が降り注ぐかもしれないのです。無理やり田舎に連れてこられ、慣れない土地で不自由な生活を強いられている娘たちにしてやれることは他にありませんでした。何も知らない娘たちはそれはもう大喜びで、真っ白だった人形の顔が真っ黒に汚れ、着物がぼろぼろに綻びるまで、昼は学校に連れて行き、夜は抱いて寝る有様でした。

戦時貯蓄債券
第6回戦時貯蓄債券

長兄は陸士出の職業軍人で、毎朝、士官付きの伍長が白馬を引いてお迎えにやって来て、家族の前で「では、行って参ります」と敬礼して馬上の人となる真面目な人でありました。そんな長兄も支那事変が始まるとすぐに、支那派遣軍として部隊は上海から内陸へと進軍したと聞きます。もっとも大東亜戦争に突入してすぐのころ、昭和17年5月29日午後5時35分、湖北省枝江県風台で長兄は戦死しました。おおかたくそ真面目な性格が災いして先陣切って突撃でもしたのでしょう。まだ日本軍が破竹の勢いで優勢だった時期です。大尉となった長兄は骨と遺髪になって戻って来ました。母はひどく悲しみましたが、父はその日から毎日怒ったように不機嫌な顔を見せていました。夜、窓を開け放った座敷に灯りもつけずに一人座って、遺骨を届けに来た従者から手渡された階級の特進を告げる書状を破り捨てた父の表情を未だに忘れることができません。

仇討債券
第13回戦時貯蓄債券

長兄の名は「自可」といいました。おそらく当時も今も同じ名を持つ日本人はいないでしょう。書家だった父がつけた名ですが、漢詩からとった名前だと聞いた憶えがあります。長兄が死んだ湖北の枝江といえば、太古の昔から多くの詩人や文人がその時代時代の喜びや悲しみを詠ってきた土地でもあります。不思議な因縁めいたものを感じたのは、やはり私の名にも同じ漢詩の、それも同じ節からとった字が含まれているからなのかもしれません。

2;サーバごっこ機 いまだPlamo Linux 2.0改-0.18GHz不眠不休号

恐悦至極に存知奉りまする。

3;スキャナ機 Plamo Linux 3.2 p5-0.166GHzまんせえ!号

モニターがついていないからスキャンできんわ。という状況は何も変わらず。

4;Win機 NT5.0 sp4 セレロン300@450x2で枯木灘

もじら上げ。

Doom

眩暈がしないようにそろそろやるかな。新しいWADを捜索中。


2005/11/02 作成