映像の話1

新シリーズ。近々、本のほうも準備中。懐古音源のツナギにどうぞ。

今回は借り物を二点。はっきりいってこちら方面の情報には極度に疎いので、適宜取捨選択してもらえるのはとてもありがたい。面白いとツマラナイだけじゃ申し訳ないので簡単に感じたことをまとめてみました。ちなみにアニメ系の出版物は著作権云々が極めて煩いので引用画像はありません。

『攻殻機動隊-Ghost in the shell』 監督:押井守

バンダイビジュアル 1995

甲殻じゃなくて攻殻か。蟹じゃないって? そりゃそうだ。タイトル見れば大枠は掴めそうですが、無理やり日本語にすれば「殻の中の魂」といった趣か。人間の意識を数値化することはいずれ時間が解決すると思われるが、問題は無意識だろう。自ら意識はできないが、意識的決定にことごとく関与している無意識があってこその人間だ。“殻を放棄してネットに逃走”などという事象は、より高次の、無意識すら量子化できる存在によって初めて可能になると思われる。それが生体としての人間の進化なのか、機械知性によるのかは不定である。

気になる点がいくつか。まず、ハッキングという表現は疑問。いくら世間に行き渡っているとはいえ、本質的に転倒した意味を撒き散らす和製英語風贋単語礼賛は百害あって一利なし。電脳なんたらで飯食うならクラッキングと云うべきだろう。まぁ、子供向け(というわけでもないと思うのだが)のアニメ見てケチつけてもしょうがないのは自明か。チャイナタウンは昔見たルトガー・ハウアー主演の映画(なんだっけ? 有名なの)みたいだし、光学迷彩は画像効果としては面白いけどステルスじゃないと意味ないぞ。そのためには平面を多用した乱反射体にして電波吸収塗装も必要だ。角々尖がって平面で構成された草薙素子じゃフレッシュ(fleshのほうね)な魅力はないが、どのみち重量500kgじゃいろいろ困る場面がでてきそうだ。うっかり人間に抱きついたりしたら、そのとき受け止めなくてはいけない運動量は常人の8倍以上なわけで全身打撲、全治一ヶ月は免れないだろう。

お話しの方は次作の『イノセンス』を先に見たせいか一瞬困惑。表現は時代を反映してしまうが、ただしストーリーとしては肉体の質的な転換が主題という意味で次作に勝るだろう。せっかく色っぽいキャラを主人公にしたのに、あっという間に肉体(じゃなくて義体か)は無用の長物と化してしまうのでは遣りきれない部分も無きにしも非ず。草薙の新しいシェルは、まぁ、今のこの国の暗渠に蔓延する典型的な「病」を表象しているのだろう。

『Innocence』 監督:押井守

ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2004

続編は漢文詩と八卦、ベルメール、聖書から花伝書まで。引用のグレードは前作に比べ一段レベルアップ。中華趣味は類型的ではあるが、徐福信仰を取り入れていておもしろい。徐福は2200年前、不老不死の薬を求め、官僚、技術者、軍人の男女3000人の大船団で東方(つまり日本)に向けて船出した実在の人物であるが、日本ではいろいろ差障りがあって史実としては絶対に認められない人でもあるらしい。徐福伝説は日本の沿岸各地に残るが、徐福が択捉に達したという話は聞いたことがない。それでも、祭礼のシーンに降る雪のCG描写はうっとりするほど美しい。
電脳同化趣味は80年代のウィリアム・ギブソンに代表されるサイバーパンク・ハードSF小説、関節人形はハンス・ベルメール。ビスコンティの遺作がイノセンス、じゃなくてイノセントかな? 女検死官はパトリシア・コーンウェルみたいだし、有機生体モニュメント・デザインは誰がオリジナルなのか興味もないがどこかで見た雰囲気。妙なハードボイルド的価値観は時代錯誤とすらいえるだろう。

そのあたりは対象をどう設定するかで決まってしまうのだろうが、ストレートに取り入れるのではなくて諧謔とシニカルな視線、裏打ちされる独自の思想が欲しかった。まぁ、思想というものは社会を差別化し分断するものだから商売には不都合だろうが、この場合対象の頭蓋に脳味噌が入っていないという事実の虚しさが救いになるだろうから、もっとやりたいようにできたのではないか。同じエロスを扱うにしてもベルメールのエロスは完全に“向こう側”だからこそ美しくグロテスクなのだ。
意識と身体性という根底のテーマとは別に、表面的には凝った引用が多過ぎで、結果的に単純なストーリー展開がかすんでしまってバランスは悪い。引用の薀蓄と刺激的な映像を楽しむものだといわれりゃわからないこともないが、3DCG独特の擬似リアリティみたいなチープな感触には馴染めない。3DCGに入れ込むのはけっこうだが、映像美とやらの概念が根本的に違ってしまっているのだろうか。手法は時代によって変わりゆくものだが、コンピュータでレンダリングできる範囲を限界としてしまうのは本末転倒だし、事象の次元を減らし抽象化の度合いを高めることによってこそ本質直感的なありていの“美”に辿りつけるのではないだろうか。

ラストになって、子供が出てくるのは興醒め。全然可愛くない少女が言い訳こいたところで、それまでの雰囲気がぶち壊しになった気がする。人格を含めて電脳に逃避できる時代に何故肉体を持った生身の人間が必要なのだろうか。生きているという身体的な感覚はデジタル的に作り出せないという設定なのかな。それともセクサロイドの感覚は生身の少女の身体感覚に結合されているということが売りになっていたという意味なのか。
そして同じ違和感を感じたものが“犬”。犬や猫に罪はないが(生身だろうが義体だろうが)ペットは嫌いだ。犬は犬らしくあるべきだし、猫はとことん猫であれ。要は子供も動物も、人間としてのレベルに達していない生き物はすっこんでろってことだ。そんなもの相手にして何が面白い? 人間が生の極限、滅私の境地を謳歌できるのは最高の美と最高の知に対面したときだけだろう。

個人的にはアクション・シーンは不要。ラスト、相棒が娘にプレゼントする人形、せっかくその顔がアップになるのだから、ここに絶望的な展開が欲しかった。


2005/09/23 作成