本の話14

今回は『陰摩羅鬼の瑕』のつもりだったのだが。ああ。ここにまたひとり。ちがう地平にご出立なさったのでせうか。その厚みが空しゅうございます。時の移ろいとともに世も移ろいて、書き手も読み手も元の人にあらず。

『五勺の酒・萩のもんかきや』 中野重治著

講談社 講談社文芸文庫 ISBN4-06-196187-X

入手性の良い普通の文庫からこういった作品が外れていくのはさびしいものだ。ましてやこの銘。これでは当社の主力の文庫には文芸作品はございません、と云っているようなものではないか。逆にこういうかたちで生き残ってるだけでもありがたいと捉えるべきか。文化の在りかたは移ろっていくものだろうが、流れから外れていると行く末がよくみえる。

十三篇が収められた短編集。著者(1902~1979)は非教条主義的民族主義者でありコミュニストであり文学者であると同時に議員でもあったのだが、きちんと書き分けの出来る人だったのだろう。天皇制をテーマにした「五勺の酒」は制度と個人、同胞意識と家を中心とした封建制等、結局その後の人達が逃げて有耶無耶にしてきた問題の提起と著者なりの回答なのだろう。一方、「萩のもんかきや」は“紋描き屋”で、戦後の日本の風土が、ガラス越しに見えた寡婦の高い鼻筋を通して垣間見える。このひとりの文学者のきびしくも明晰な視線によって、清々しいまでの明るさと悲しさが心に染みわたる。

『象と耳鳴り』 恩田陸著

祥伝社 祥伝社文庫 ISBN4-396-33090-1

全部読んでいるわけではないが、著者の傾向としては比較的珍しい謎解きミステリィ短編集。重くはないけれど、ライトノベルズ的な安っぽい展開がなくて個人的には好感です。突き詰めないで、論理と妄想のはざまにふわっと抜けるところは相変わらずというかそれが個性なわけですが、もともと前人未踏のミステリィというよりは、優れた引用とアレンジ、あるいは歴史参照なりオマージュに重きが置かれているということなのでしょう。確かに、“普遍的事実”がしょせん信仰でしかない現代において、ミステリィの事実を基盤とするプロットやトリックにオリジナリティを期待する意味は無いし、書けば書くほど嘘臭く思えてしまう。結果的にファンタジィに逃げたり、時制を過去にしたり、あるいはキャラに萌えてみたり濫作読み捨てラノベ化という手法が採られるのだろうが、この人の場合は典型的な“書ける”文芸作家の新しいモデルなのだろうな。

「曜変天目の夜」「海にゐるのは人魚ではない」「ニューメキシコの月」「廃園」あたりの審美的な抒情性は個人的にツボに嵌まります。

『私家版 青春デンデケデケデケ』 芦原すなお著

角川書店 角川文庫 ISBN4-04-344601-2

賞取り版『青春デンデケデケデケ』に比べるとほぼ倍くらいの分量になるオリジナル版。それなりの、そしてありがちな悪意と挫折と困難も加わって現実味は増していたけれど、確かにエピソードとしては余分というかストレートな感慨を殺ぐことも事実だろう。完成度としては賞取り版が妥当だと思う。でも語り口が説明臭くないというか、きちんと季節が移っていくほうが自然で良いね。カットされた部分でいちばん印象に残ったのはジョアンナ・シムカスに似ていると表現される音楽教師の妻のエピソード。彷徨するだけなら可愛いじゃないか、ともいえるが、なかなか凄愴な色合いだ。しかし、ジョアンナ・シムカスには驚いたね。一瞬目が点になった。この表現ってどの程度一般性があるのだろう? 封印されていたシーンが怒涛のように溢れてしまったな。彼女が出演している映画なんてほんの10本ぐらいだろう。その中で日本で公開されたのはほんの数本のはず。おそらく『冒険者たち( Les aventuriers 1967 フランス)』一本で評価が定まってしまった人だが、一度見ただけで見た人を間違いなく虜にするタイプの女優だった。変なところに共感してしまったな。

『黒いハンカチ』 小沼丹著

東京創元社 ISBN4-488-44401-6

それほど取り立てて特徴があるわけでなし、刺激的と云うこともない気がするのだが、丁寧で落ちついた雰囲気が独特の硬質な透明感を湛えている純文系作家によるミステリィ。初出は1958年というからもう50年近く前の連作短編集ですが、違和感無く読めてしまう自分の精神構造は若干問題だな。物語が内包する雰囲気は、当時としてはかなりエキセントリックだったと思われるが、その尖り具合も今となっては微笑ましい。別に人が死ななくてもミステリィは書けるというのは、古くはジョセフィン・テイの名作『時の娘』(1951年)から北村薫の『女子大生シリーズ』まで自明の理なのだが、ここに提示される謎も一部を除いてその路線か。時代背景からか金銭がらみの話が多いのだが、底無しの遣り切れない悪意が介在しないことも読後感の爽やかさにつながっている。

『ネバーランド』 恩田陸著

集英社 ISBN4-08-747577-8

悪い意味でなく設定がマンガみたいな読みやすさが売れる秘訣なのだろうが、人物描写も心理描写も類型的で底が浅く物足りない。『木曜組曲』の少年版といったところだが、ひたすら自壊する『木曜組曲』に対して、外に向かって解放されていく様は清々しいか。男子校の寮なんて想像するのも嫌なものだが、女性視点の少年美化と現実味の無さに堪えられればテンポは良く、持続性よく読める。むしろ“ネバーランド=存在しない場所”ととるべきか。展開と文章はあっさりめ。少年たちが抱える悩みも平凡でありきたりだが誰でも理解できそうで野次馬になれそうな週刊誌ネタ。おおむね購買対象としてのマジョリティをきちんと見極めて書かれているのだろう。一言、かつて少年だった立場から言わしてもらえば、少年はそんなに考えないのだなぁ。考える前に体が動いてしまうのだ。その結果を喜んだり悔やんだり。「やっちまったこと」がまずあって、その自己評価と手法改善が成長なのだ。過去は完膚なまでに徹底的に捨象されるのだ。ところで、話は元旦で終わってしまうのだが、冬休みの後半はどうするのだろう。

舞台になっているのは東北(気候的には太平洋側)の「松籟館」なる寮なのだが、今どき“松籟”なんて意味が通づるのだろうか。ありきたりの老人ホームの館銘みたいだよ。かつて松は生活と切っても切れないものだった(門松とか)けれど、今はその日本的な風姿が嫌われるせいか庭木に植えたりすることもまったくなくなりましたね。海岸沿いの防砂林くらいだろうか。特異な葉の形状が生み出した風の音を聞き分けた過去の感性に乾杯。


2003/09/11 作成