皐月

皐月に咲くから「さつき」というのか、たまたま「さつき」が咲くから皐月になったのかは知らない。梅雨のことを五月雨、梅雨の晴れ間の激烈なコントラストと猛烈な気温と湿度を皐月晴れというのが本来の意味なんだが、どうせ今どきの季節感など狂いっぱなし(というかいんちき)なので、少し早い皐月晴れの下、たまたま通りかかったら皐月を並べていたので見て歩いた。日本皐月協会主催の第54回日本さつきフェスティバルだそうで、思わず異質なものに出っくわしたみたいな、そこだけ空間が歪んでいた。照りつける強烈な日差しを避けるように展示用の仮小屋の影の中で紅色や白色の花がもやもやと蠢いている。つつじに比べて今一つ冴えない庭木ぐらいにしか考えていなかったのだが、むしろ完全に逆ですね。艶やかというかひたすら妖しい。そういえば昔、縁側や路地端で丹精こめられた姿が瞬間的に甦った。どうも和風のイメージが強くて死語ならぬ死花というか過去の花になってしまったらしい。花や植物に対する好みは、実際非常に流行り廃れが激しいようだ。そんなせいもあって昨今の催し物とは程遠く、ひっそりと見入っている爺さん婆さんがちらほらする程度で、静まりかえった白昼を過去がゆっくりと流れているのだ。

しかし一本の木にどうして違う色の花が同時に咲くのだろう。皐月って常緑低木だから植栽として非常に安易に選定して植えたりするのだが、花の大きさだけとっても全然違うのはよくわかる。盆栽は生物的な畸形を作り出すように思えてあまり興味の対象にはなってこなかったのだが、売られてる草花や野菜は結実しても発芽しない処理(自己完結型拡大再生産が不能な非生物型商品)等が施されてるわけで、形を弄る事だけを嫌がってみても仕方のない時代だ。人の数より皐月が多い光景は単なる見世物を越えて、皐月が主役を張っている。空気も時間も皐月が支配しているような一種異様な、濃密な液体の中を泳いでいるようだ。照明が今どき信じられないが裸電球のみなので、夜には奇矯な花がより一層妖しく輝くに違いない。見渡すと不忍の池の蓮もひょろひょろと首をもたげてきた。


2002/06/17 作成